日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

天はその人が乗り越えられないハードルを与えない

 

言の葉を拾い集め、その断片をつなぎ合わせていくと、いつの間にかひとつの話になっている。そういう形が好きである。というとカッコいいが、要するにものぐさで横着者であるということだろう。
読み物から言葉を抜粋してメモに残したり、視聴するものや気になるものをチェックするクセがある。とくに今はボイスレコーダーのお世話になっている。
つい最近だと思うが、NHKで2週にわたり加山雄三さんと黒柳徹子さんの音楽トーク番組が放映されていた。私はその録画を一杯飲みながら観ていて、お気に入りの言葉をボイスメモしていた。

 

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77歳の加山さんは今もテレビによく出ている。毎年のコンサートツアーも精力的にこなしている。私は子どもの頃、映画『若大将シリーズ』で売れていく、加山さんのサクセスストーリーを見ていた。その一方で、黒澤明さん、成瀬巳喜男さん、岡本喜八さんといった名匠の作品にも出演している。

当時、自作自演と呼ばれていたが、日本のシンガー・ソング・ライターの草分けとしても、加山さんは有名である。こうして一気にスターへとなった加山さんであるが、巨額の負債を抱えてキャバレーでのドサ廻りも体験している。紆余曲折の中から感じ取った加山さんの言葉はたいへん興味深い。

 

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加山さんは、自身のヒット曲について、“曲はアレンジしだい”と言って笑った。
出演映画の挿入歌として作った『恋は赤いバラ』が話題になり、当時所属していた渡辺プロの渡辺晋社長から、次の曲も早く書くように頼まれていた。

しかし、いつまでも曲ができないので、催促されることになる。その際、渡辺晋さんは『恋は赤いバラ』とまったく同じコード進行でかまわないからと囁いた。それを真に受けた加山さんは、その通りに『恋は赤いバラ』をベースに1時間半で作り上げた。

その作品こそが350万枚の大ヒットとなった『君といつまでも』である。その曲が森岡賢一郎さんの編曲にて仕上がったときは、自分の曲とは別物に感じたそうであった。

 

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1970年に茅ヶ崎パシフィックホテルが倒産した。オートバイで海岸道路を走ると、大きくてきれいなホテルが目についた。もちろんパシフィックホテルは有名で、名前も知っていた。負債額は当時で23億円。今の額で200億円以上になるであろうか。

加山さんの叔父が経営ということで、他にスキー場も倒産した。支払い能力があるのは加山さんだけということで、監査役だった加山さんが巨額の負債を抱えた。
何度も土下座している、と加山さんは語っていた。首根っこをつかまれたり、蹴られたりもした。

キャバレーでのドサ廻りでは、北島三郎さんの演歌をよく歌ったそうである。だれも聴いてなんかくれないし、演歌でなければ通用しなかったとか。ギャラはほぼ全額、借金の返済に充てられ、質素な生活へと追い込まれながらも、10年で完済した。

 

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まだシネコンなどない時代に、単館でオールナイト5本立て興行を行う映画館があった。そこで『若大将シリーズ』を特集したら、若者たちに大受けした。新たなるブームが起きたのである。映画界は不遇の時代であり、もちろん『若大将シリーズ』の撮影はとっくに打ち切られていた。そのとき、私も観に行った記憶がある。とても懐かしかった。

そして、加山さんの曲も新しいファンに受け入れられて、歌う仕事が増えていった。
“天はその人が乗り越えられないハードルを与えない”と、加山さんはしみじみと言った。
“必要とされていると思うことはすごく大事だと思う”。“必要とされるには自分の役割みたいなものを見つける”ことである。

テレビで久しぶりに歌う加山さんは、客席の反応が心配だった。“聴いていてくれて少しでも倖せを感じていてくれるかな”そして、皆が拍手してくれて立ち上がってくれたのである。涙が止まらなかった。

“ああよかった。俺の役割がこれだ。”、“そこから自分の中で新しく生まれ変わっていくエネルギーみたいなものが湧いてくる”

加山さんは、“夢を自分で作って挑み続ける”と言っていた。“80歳になったら燃料のいらない船で世界をまわる”。そして、“目標を持ったり、やる気を持つということが人間にとって大切”。“やる気を持つたび若く、失望を持つたび朽ちる。”

“自分で失望しちゃう人が多い”、“結論付けちゃったり”と。
しかし、“明日はなにが起きるかわからない”、“未知だからこそ自分で増幅していく”のであろう、と・・。