情報や情緒のことを考えていたら厚顔無恥と恥の上塗りで頭が混乱
多くのブログを拝読させていただき、いつも思うことであるが、情報量の多さではなく、その語り口により、とても楽しく感じて読み入ってしまう。たしかに、情報だけ詰め込むのなら無味乾燥であろう。行間から感じられる楽しさのようなものがある。
お料理がメインのブログでも、その方の肉声で語られているようでおもしろい。横道にそれる何気ない言葉など、けっこう楽しんでいる。
まだ20世紀の頃から、「情報の時代から情緒の時代へ」と、移り変わることがいわれていた。情報そのものだけでなく、情緒の感じられる語りに触れて、その意味がわかるような気がする。
感性は情報と似ているようで、実はかなりちがうようである。情報は新しくて、知っている人が少なければ少ないほど価値がある。感性はというと、必ずしもそうではない。
情報に関する書籍がベストセラーになったとしよう。書籍が初めに書店に並ぶ時点では、すでに最新情報というわけにはいかない。そして、大半の人は本が売れ始めてから買うことになる。その書籍が売れれば売れるほど、その売れ行きはさらに拍車がかかる。
その存在を知っている人はどんどん増えていくのである。人の気持ちというものは、自分もみんなと同じ思いを共有したくなるものなのだろう。そして、みんなの考え方に自分も参加したいという強い意識につながる。それは他の人が今、世の中をどう感じ、大事なものや流行りのものをどう思っているのか、という感性を知り、安心したいからである。
それぞれの人が自分の全体像を、相手の五感へ訴えるには、相手と対面するのが一番いい。かつて、それができるメディアは、テレビやラジオであり、活字は(相手に)全体的な息吹を感じさせるメディアとしてはもっとも遠い存在であった。一番新しいメディアであろうネットでは、文字、画像、映像、音のやりとりがかんたんに可能である。しかし、かんたんであるがゆえに、虚実の境目が見分けにくくなっている。
そのために、人間が本来持っている「感」を養うべきかもしれない。限りない情報の中から、理論よりも動物的感性を磨き、研ぎ澄ますことで、情報の取捨選択をしていくことが大切になってくる。
論語に「子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず」という一節がある。「物事を理解している人は、愛好している人にはかなわない。そして、愛好している人も、楽しんでやっている人にはかなわない」。理論ではなく、本当に好きでたまらなく覚えたことの深さにはとうてい及ばないということだ。それは情報の取捨選択の正確さについてもいえるはず。
それにしても今は、情報、情緒とハッキリ決めつけられない物事が多く、論理的や感情とはちがうことが起きている。不可解としか言いようがない。
別人に作曲させていたことと、全ろうを偽っていたことが発覚した例のあの人が、代理人を通じて、日本音楽著作権協会(JASRAC)に接触しているとか。会見でゴーストライターを認め、謝罪もしていた。してきたことの弁明などはどうでもいい。
真の作曲者であるゴーストライターの方が、それ以前の会見できっぱりと拒否した印税を、のうのうと受け取れるのかどうか。それだけを見極めたかった。本人は「私の設計図に基づいている」と、自身の功績について言及し、著作権を主張するような口ぶりであったが、メモ用紙に走り書きしただけのものに、どれだけの価値があるというのか。
「厚顔無恥」という言葉は、こういうときのためにあるような言葉かもしれない。その意味は「厚かましく、恥知らずなさま。他人の迷惑などかまわずに、自分の都合や思惑だけで行動すること」。
昨日行われた某市の市長選もひどいものであった。某市長は、自分に人気があるとのうぬぼれとわがままで、人気ならぬ任期をまっとうせず、6億円の税金を無駄にする再選を実行した。結果は、同市長選で過去最低の投票率。まさに某氏の「独り相撲」で終わった。白票を含む無効票は6万7506票で、落選した3候補の合計得票5万3895票を上回った。そして、「白票が多かったのはメディアの責任」と発言をしているとか。
『都構想「住民投票で」夏までに設計図』なる見出しのネット記事も出ている。
こちらの場合は「恥の上塗り」という言葉がピッタリかもしれない。そして、その意は「恥をかいたうえに、また恥をかくこと。恥の恥」である。
それにしても、このおふたりに共通なキーワードが「設計図」であったのが笑える。聞く耳を持たないところも似ているが、どうかきちんとした情報を踏まえて、情緒のある言動に心がけていただきたいものである。