日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

編集者・作家・詩人の説得力は

 

昭和の時代に置き忘れてきたのだろうか。“骨のある人物”という言葉を近年はとくに聞かれないような気がする。

<自分の読みたい雑誌を作れ>が最初の指示だったという。新潮社の“怪物”といわれた伝説的編集者の斎藤十一(じゅういち)さんである。その斎藤伝説では、「貴作拝見 没(ボツ)」という、五味康祐さんへの手紙がある。

坂口安吾さん、佐藤春夫さんなど大作家の原稿も平気で没にしたという。反面、山崎豊子さん、吉村昭さん、瀬戸内寂聴さんという、戦後文壇を代表する多くの才能を世に送り出した。

さて、あの推理作家・松本清張さんは凶器として変なものが使われたという。1972年の短編小説『礼遇の資格』にて、フランスパンである。

<フランスパンが脳天を一撃しただけでアメリカ青年は眼(め)をまわし、つづく二撃、三撃によって床に伸びた>のだと。犯人は剣道二段で、古いパンだった、という設定だ。

 

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清張さんの説得力とでもいうか、当時は納得させられていたがパンで人を気絶させるのはなかなか難しい気もする。思えばあのとき、私はフランスパンを食べたことがなかった。

作家、演出家の久世光彦(てるひこ)さんの『町の音』というエッセイの中で、好きな町の音を一つだけあげろと言われたら、<私は躊躇なく、この音と答える>とあった。

「夕食の支度をする音」である。鍋の蓋をとり落とす音、茶碗の触れ合う音、そして水を使う音らしい。たしかに、夕食の支度をする音の中には、幼き日の想い出が擦り込まれている。湯気に煙った窓があり、そこで夕食の支度をしている音が聞こえる。

 

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今の時期は、秋の夕暮れ時に家の中で耳にした、かつての家族の声や息づかいも感じられそうである。

白やぎさんと黒やぎさんで、届いた手紙を読まずに食べ、手紙が無限に行き来する童謡が『やぎさん ゆうびん』である。

作詞した詩人の まど・みちおさんは著書で、<食いしんぼうの歌だと思ってくださるとうれしい>と書いている。生きることは食べること。そして、すべての生き物が無限に食いしんぼうなのだ・・・とも。

<なのに人間は、自分が食いしんぼうなのは心得ていても、隣の人やほかの生き物もそうだということは忘れてしまう。覚えておったら、世の中はずいぶんよくなると思う>。こうして、詩人は物事の本質を見抜くのである。

 

 

今週のお題「青春の1ページ」

 

熱心な共感力で我が身を試す

 

<何十年かたった後に、時代を思い出す最初の扉が歌であればいい>。作詞家・阿久悠さんの(自らの)作品に対する、思いであった。世の中にとっての歌は? との問いかけにて、それが答えのひとつだったようだ。

相手の側に立って考えられる能力のことを“共感力”という。漫才のネタ作りにも共感力が必要だといわれる。そして、客の誰もが共感し、心から笑えるものもあれば、炎上する刺激的なものもある。

<棋は対話なり>って言葉があるんですよ、と言ったのは将棋の羽生善治さん。駒を動かしながら心の中で相手と会話を交わすのだ。「ここまで取らせてください」、「わかりました。そこまではいいでしょう」、「では、これもいいですか」、「それはちょっとよくばりでしょう。こちらも戦いますよ」・・・という具合にである。

押したり引いたりと、こうした対話を重ねながら、自分の有利な展開へと最終的に導いていくものらしい。

 

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研究熱心の医学者だったという。ドイツの医師ベルナー・フォルスマンさんは、自分の身で試してみる。ある時、自分の腕の静脈にゴムの細い管を入れ、片方の手で管を心臓へと押し入れていった。

そして、そのまま地下のレントゲン室へと歩いて行き、X線写真で管の先端が心臓に達しているのを確認。

この写真が証拠となり、後年にフォルスマンさんは心臓カテーテル法のパイオニアのひとりとしてノーベル医学生理学賞を受賞することになる。

いかにもケチで意地の悪そうなお婆さんを、電車の中で見つけたのは樹木希林さん。ふつうなら観察するだけだが、希林さんはあとを尾けた。電車とバスを乗り継ぎ、たどりついたのは千葉の高齢者施設。

希林さんは中に入り、お婆さんや入所者の人たちとおしゃべりをし手を握ったりした。指の先だけちょん切ったレースの手袋、珍妙ですその長い割烹着。『寺内貫太郎一家』の“キン婆さん”の衣装は、この体験から生まれたそうな。

 

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樹木希林さんのエピソードは多い。あの向田邦子さんの遅筆に腹を立て、「筋だけ書いてよ後はこっちでなんとかする」と大げんかになった、と。

役者としての絶対的な自信はあったはず。脚本に書かれている以上のことを、その歩き方や背中で語っていた。そして、アップを求めなかった。

<監督、わかっていると思うけど、みんな背中で芝居できる役者が集まっているんだから、顔のアップ撮ったりしなくていいからね>と、是枝裕和監督に伝えた。

希林さんは作品全体のトーンやバランスも自分で考えて演じる。アップなんて邪魔なのだろう。そして、恥じらい方、ねたみ方、転び方など、人間というものに目を凝らして毎日を過ごしてきた俳優だ。

1964年のテレビドラマ『七人の孫』では、21歳の希林さんが森繁久彌さんと丁々発止のアドリブ合戦を演じた。希林さんいわく、<森繁さんが本なんか無視して、どんどんその場でつくっていく面白さに洗礼を受けた>とのことである。

 

立体的ではなく平面的な記憶

 

10歳代の頃、江戸川乱歩さんの小説をよく読んだ。登場人物としての若者の年齢としては、25歳との設定が多かったような気がする。当時の私はなんで? と思った。10代の若者の頭には25歳が大人だったからである。

歳を重ねるごとに、テレビや実際に目撃した数々の記憶が、立体的ではなく平面的になる。年代としては、かなり離れている出来事もすべて近くに感じる。

1963年5月24日、デストロイヤーと力道山のWWA世界選手権のテレビ視聴率は64.0%で歴代の第4位だという。

デストロイヤーの得意技「足4の字固め」が決まるも、力道山が体を反転させて裏返しになると攻守が逆転する。ほとんどこの繰り返しの場面なのに、ものすごい迫力であった。

試合はどちらもギブアップせず、レフェリーが試合をストップ。絡み合った両者の足が外れずたいへんであった。それにしても、プロレス人気は高かった。

 

 

<技術者の正装だから>。 1981年、皇居での勲一等瑞宝章親授式に、真っ白なツナギ(作業服)で出席しようとしたのはホンダの創業者、本田宗一郎さん。魅力のある人である。結局は燕尾服にしたが、根っからの現場人間だ。

2019年3月6日、作業着で保釈された日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告は、映画のようなカムフラージュであったがすぐに見破られた。東京拘置所の玄関前に横付けされた大型ワゴン車ではなく、脚立を積んだ軽ワゴン車に乗り込んだ。

落語家のどなたかのネタだという。作業着の言葉を分解すると<サギ ヨウギ>。本田宗一郎さんと同じ自動車メーカーのトップだったこの人の作業服は、意味が違うようだ。

さて、バブル時代の前後だったか、テレビから文字通り24時間流れていた。<♪ビジネスマーン! ジャパニーズ・ビジネスマン>。勇ましいメロディーによる栄養ドリンクのCMであった。

 

 

日本中が浮足立っていた。天井知らずの景気で街は眠らず、企業戦士に昼も夜もない。コンビニだけでなく、外食産業などの24時間営業も国民の生活パターンを変えた。

<衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ>。日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)さんの名言である。

チキンラーメンが発売されたのは1958年。スープを麺に染み込ませ油で揚げる。そして、お湯をかけ蓋をして3分待てばラーメンができる。画期的な発明といえる。

大量生産、大量消費、そして広告の時代の幕開けでもあった。<どんな優れた思いつきでも、時代が求めていなければ、人の役に立つことはできない>と、安藤さん。

ラーメンからミサイルまで”をキャッチフレーズにした大手商社が取り扱いたいとも言ったが、安藤さんは断った。「食足世平(食足りて世は平らか)」がモットーであり、“食が一番大事で、人類に貢献している”との信念がある。ミサイルと並べてもらいたくないのだ。

 

秋の夜も悪くないと想う時期

 

<迎えの拍手はきのうまでの人気、降りる時の拍手は今の人気>。五代目 古今亭今輔さんの名言だという。人の一生に置き換えても当てはまりそうである。

芸道と同じく、人生にも良いことと悪いことがある。また、人には食分(じきぶん)と命分(みょうぶん)があるという。人が一生に食べる物の総量を食分といい、命分が寿命の長さらしい。

ある者があの世へ行くと<こいつはまだ命分があるから帰せ>と閻魔大王は言う。冥界の役人が<命分はあるが、食分が尽きている>と応じた。

それらはあらかじめ決まっているから、より多く求めても無駄。大王いわく<しからば蓮の葉を食べさせよ>と命じ、その者は生き返り 蓮の葉で余命をつないだ。

今の世は、(世代別調査によると)20歳代以上の人で、1日の摂取カロリーの最も多いのは男女とも60歳代だったという。その食分と命分の割合はどうなっているのだろうか。

 

 

20年ほど前の調査では、60歳代が(男女とも)20~50歳代のどの年代より少なかった。それが今では、若い人よりも食欲の旺盛な60歳代になっている。60歳代より若い世代は、健康志向によりカロリーを気にする人が増えたことも減少要因のひとつなのだろう。

摂取カロリーの減少と平均寿命の延びは、“食分=命分”との関連もあるのだろうか。なにはともあれ、<衣食をむさぼるなかれ>の教訓が生きるようだ。

<寄鍋や むかしむかしの 人思ふ>。山口青邨さんの一句である。夏の暑さでおさまっていた食欲が、秋の涼しさとともに蘇る。

昔はどこにも商店街があり、豆腐店精肉店が軒を並べ、少し隔てて青果店があったりもする。そこを歩き水槽の豆腐や肉を見て、白菜やネギを見れば“寄せ鍋”を連想したり楽しめる。スーパーで食品コーナーを移動するのとは、やはり趣がちがった。

 

 

涼しくなると秋の夜もわるくないと、それぞれの食材が頭のなかの鍋で煮える。我が家では卓上のIHヒーターの出番が増える時期である。これがとても使いやすくて、カセットのガスコンロは捨てた。

昭和も終わりの1987年7月23日午後、首都圏が大停電に見舞われた。折からの猛暑で電力需要が急増、複数の変電所がダウンして影響が280万戸に及んだ。

最大3時間余で復旧したが、バブル真っ最中の日本は信号機が消え、エレベーターが止まり、病院もパニック。銀行のATMも使えない。

それは、今回の台風被害の光景にも重なる。9日に上陸した台風15号による大規模停電で、千葉県を中心に深刻な影響が広がっている。

世の中の電力依存がどんどん進み、生活で必要な家電やシステム等あらゆるものが電気で動く。本を読んだり写真を撮るのも電気。スマホも電気がないと使えない。

現在は30年以上前より、事態がはるかに深刻なはずだ。それが何日も続いている。電気が使えないことの被害は計り知れない。被災地の速やかな復興を願うばかりである。

 

あこがれは人生の先輩なのか

 

ワープロやパソコンが一般化する前、ひらがなタイプライターを使ったことがある。今のパソコンキーボードと配列は同じく、アルファベットとひらがなを併用したものだ。打ち込みが新鮮で、ひとり悦に入った。

そのうちワープロが流行り、日本語入力は「ローマ字」と「かな」の2方式が中心になった。富士通が開発したかな入力方式「親指シフト」も人気を博したらしいが、今はローマ字入力が多い。

現在は、スマートフォンの普及でキーボードを打てない若者もいるという。新入社員の変化に戸惑う企業の人事担当者は、左右の人さし指でキーを探し、ポツリポツリと打つ人が増えている、という。

スマホだけでリポートを書く学生もいるが、学生のパソコン所有率は下がり続け、今や4割程度だとか。

 

 

キーボードを打ち込む音が社内の活気を呼ぶような気にもなるが、今の職場ではやはりパソコンが主流なのだろうか。

社員にやる気のない会社はトイレが汚いとの話をどこかで訊いたことがある。銀行マンは取引先の会社を訪ねるときは、3つの点に注意するとか。それは、「トイレ・予定表・廊下」だ。

社員の振る舞いは、業績を映す鏡なのだという。商品や伝票は廊下に山と積まれ、予定表には雑なスケジュールしか書かれていないとか。そしてトイレの清潔度などを測るらしい。

<健全なる猜疑心>。いかなる取引も疑ってかかるのが銀行業界の基本である。

猜疑心といえば、ある落語家を連想する。三遊亭円朝さんである。日本語による近代的な小説のさきがけとされる『浮雲』を書いた二葉亭四迷さんは円朝さんの落語を参考にした。

江戸時代の終わり、世に出た円朝さんの『牡丹灯籠』は明治のはじめに速記から活字化された。今の日本人にもわかりやすい語り口には感嘆する。

 

 

『牡丹灯籠』をはじめ、円朝さんの新作落語は数多い。旺盛な創作力の背景には、猜疑心の絡みもあるらしい。

若くして真打ちになった円朝さんの人気を、師匠の二代目・円生さんが妬んだ。そして、たびたび弟子の演目を先取りした。今で言う“パクり”である。

そこで円朝さんは、師匠が自分の物にできないような、オリジナルの噺を披露していく。結果として、円生さんは円朝さんの才能を開花させるのであるが、“不世出の名人”と呼ばれる円朝さんだからこそ成し遂げた芸である。

昔の人の話はとても興味深い。昔かたぎは筋金入りといえば俳優・笠智衆さんであった。
<明治生まれの男は泣かない>。あの小津安二郎監督に、『晩春』の脚本にあった慟哭シーンの変更を願い出た。

この話も有名だ。映画の『寅さん』シリーズで、柴又帝釈天の住職を演じたとき、松竹が用意する車に乗らなかったという。

<僕は電車が好きなんです>と言い放ち、東京の柴又から鎌倉市大船の自宅まで東京湾を半周して帰っていた。

住職の笠さんは写真を撮られるとき、真面目な顔つきで「バター」と言う。よく似た黄色い箱が定番のチーズとバターだ。そのネタは寅さんも使っていた。

 

右脳の勉強はノートに記して

 

将棋の羽生善治九段の言葉だという。<現代はAI時代ですが、私は勉強するにもノートに記します>。

たとえ画面を見なくても、スマートフォンが目に入れば記憶力や思考力が落ちるという。情報を得たり知人との連絡などと、スマホに頼る場面は多い。

私の場合、スマホの依存度はそれほどではないが、パソコンがなければなにもできない。このままでは怖くなり、最近黒い表紙の(A6サイズ)ノートに毎日、思い浮かぶものを書き込んでいる。漢字を読めても書けなくなっているのが情けない。

スマホを隣の部屋などに片づけ、目の前の課題や人に意識を集中する訓練も、判断力や発想力のアップに良さそうだ。

羽生九段は<将棋において、ある一定のところまで強くなる人は、テクノロジーの恩恵で増える>と言う。そして、その先は個々の創意工夫にかかっている・・・と。

 

 

進化した人工知能(AI)を搭載した将棋ソフトを、藤井聡太七段が使い始めたのはプロ入りする直前。それを踏まえても、羽生九段いわく<藤井七段はデジタル・ネイティブではないですよね。彼は詰将棋など、骨格を作った勉強法がアナログです>と、分析は冷静である。

羽生九段が棋士になって34年、将棋界も情報処理の面で大きく変わった。1980年代は自力で将棋の棋譜をファイリングした純粋なアナログ時代。90年代で棋譜データベースが登場して、細かく分類できる戦術になっていく。

2000年代では、インターネットの将棋サイトでの対局が盛んになり、上達のための将棋の地域格差がなくなった。そして、強い将棋ソフトが現れることになる。

アナログからデジタルとめまぐるしく状況が変わった将棋界を、常にリードしてきた羽生九段は実力もさることながら人気もものすごかった。

 

 

音楽などのヒット推移や人気商品の順位を見る人の反応は、大きく分けて2つあるらしい。1つは人気があるものだから自分も欲しいと思う人。もう1つは同じ理由なのであるが、自分は要らぬという人。

バンドワゴン効果」という言葉は、人気が人気を呼び大ヒット商品が生まれる現象だという。古きアメリカの南部で、楽隊を乗せた馬車を宣伝に用いたことに由来するそうな。

当時の選挙運動で、この楽隊車に有力者を乗せて選挙民にアピールしたとか。勝ち馬に乗る動きによって優勢な方がますます有利になるのも、政治のバンドワゴン効果。まるで、どこかの国のようだ。

堀口大学さんは、夏の隙間に秋の顔がのぞいた時の心境を残した。<盛んなものが落ち目になつて来るのを感ずるほど哀れにも、みじめなものは無い>と。得た票でバンドワゴンに乗って浮かれる政治家たち。

羽生九段や藤井七段のように、アナログで土台を築きデジタルにも向かい自分を磨き続ける棋士がいる。今、時代を見据えて学び続ける政治家たちは、どれくらいいるのだろうか。この日本には・・・。

 

なにごとにも理由はあるはず

 

発声の達人は息をすべて声に変え、ロウソクの前で歌っても炎は微動もしないという。息をしっかり声にする能力に長けているためで、とてもわかりやすい表現である。

その昔、小さな演芸場で出演者の芸に客席が退屈しているとき、係員はある細工をしたらしい。間違えたふりをして幕を10センチ弱おろし、すぐに戻したとのこと。終演が近いことを客に伝えて救いを与えた。

不評だからと高座を投げ出すのではなく、不評でも高座を全うするための細工である。そういう高座から育った達人もきっといたに違いない。

森真紀(まさのり)さんの著書は題名がおもしろい。たとえば、『悪妻盆に帰らず』。ことわざのパロディーらしい。<前菜は忘れた頃にやってくる>では、遅れて来た一皿にはどこか憎めないものがあり、他日の笑い話にも使えるとのことだ。

 

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時事川柳とくれば、その時期を切り取ったパロディーなのか。
<令和では普通になるか40度>(佐藤正弘さん)。<雨傘が日傘にかわる長期戦>(鈴木藤吉さん)。先月末のよみうり川柳にあった。

そういえば昨日の昼間、晴れていた空が突然曇り激しい雨になった。しばらく続いた後に空は晴れてきたが雨も残っていた。日差しの暑い雨で何人もの女性が日傘で雨を凌いでいた姿が、ふしぎでおもしろかった。

危険な暑さが続いたこの夏も、自宅にエアコンがあるのに使わず熱中症で亡くなる高齢者がいた。使わない理由の多くがは「体が冷える」と「もったいない」である。

壁掛け型の室内機と室外機によるセパレートタイプのエアコンは、1968年に三菱電機が発売。勢いよく吹き出す冷気に大喜びしたのもつかの間で、両親は体が冷えるといって嫌がったり、電気代がもったいないという感覚もあり冷気を堪能するには至らなかった。そのときの子どもの世代が今の中高齢者になっているから、なかなか使わない方もいるらしい。

 

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カクテルの王様・マティーニの作り方は、ジンがおおよそ“3”に対して、ベルモットが“1”らしい。これよりもジンの割合が高いものがドライ・マティーニだという。

ドライ・マティーニといえば、俳優の藤竜也さんを思い出す。以前読んだ記事に興味があったからだ。

藤さんが約50年ずっと行きつけのバーは(横浜の港にある)ホテルニューグランドだという。「俳優になってから、ときどき来るようになって、何年もの間、映画の仕事が1本終わると昼間から来て飲んでいた」という。

だいたいビールを飲んで、そのあとはドライマティーニなのだそうだ。ドライマティーニというものを私は飲んだ記憶がない。その店でいつか飲みたいと思うのだが、その機会に恵まれていないままだ。

大好きなあの名曲『横浜ホンキートンクブルース』の作詞は藤さんである。歌詞の中にも“ホテルニューグランド”が出てくる。それだけに憧れが強くなるのである。

「なにかにこだわる」って、理由があるからこそワクワクしてくるような気がする。

 

 

今週のお題「わたしの自由研究」

1年のうちにある「ないまぜ」

 

すでに立秋は過ぎても、子どもの頃の習性か。淋しさと明日への緊張が、ないまぜになる一日がある。たとえば12月31日、3月31日、8月31日・・・と。

うちの近くの小学校は8月26日で夏休みも終わったが、私にとって8月31日と9月1日のちがいは大きい。<8月31日=夏の終わり>だったからだ。

海水浴場の迷子は夕暮れに東の浜で見つかるという。監視員の経験則らしい。不安になると人は太陽に背を向け、西日が砂浜に落とす影を追いながらとぼとぼと歩く。そして東の果てに行きつくそうな。

夏には「良薬口に苦し」みたいな部分もある。なにもつかめないのに暑さに身を置くことで、のみにくくても結果的に服用した人のためになるみたいな感覚なのか。秋になればなんらかの効き目を感じられるかもしれないが、夏にしがみつきたい気持ちは強い。

 

 

夏はある意味、“カンフル剤”の要素もある。かつて、カンフルは精製した樟脳(しょうのう)液で、強心剤として盛んに用いられた。暑さという枷が一時的なカンフル剤にはなるが、涼しくなれば情熱が消え失せて、息長く押し上げることは期待できない。

自分はシャツの裾をズボンに入れると教わった世代だが、1990年代に“入れない派”が拡大した。近年は入れる方が少数派だ。

カリブ・スペイン語の「コティスエルト」とは、シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男の人という意味らしい。<人生も着るものもリラックス>という前向きの言葉だという。

ある中学校の先生がおもしろい実験を行ったという。体操着の裾を入れた生徒と入れない生徒に運動してもらい、その後の体温を調べた。その結果、裾を入れない生徒の体温の方が4度低かったとのこと。

今の酷暑はかつての夏とは暑さの質がちがう。それでも、アナログのアイデアでの対応が可能である。知恵を絞ることの大切さを忘れてはいけない。

 

 

過ぎゆく夏のイメージといえば、(私の場合)幼い子どもが描くクレヨン画の(夏の)風景である。9月になると、そういう絵をたくさん見たくなる。

“クレヨン”という言葉はフランス語で、鉛筆や木炭など、固形の描画材料の総称だったという。顔料と蝋などを混ぜて作るクレヨンは、アメリカで1903年に黒、赤、青、緑などの8色入りが発売された。

当時のアメリカは油田開発が活発で、石油精製で大量に生じる蝋を有効活用した。それが日本へ大正初期に米国から輸入され、1920年代には国内に多くの製造業者が誕生したのだ。

日本で独自に油などを加えて軟らかくした製品が開発されると、急速に普及。大正時代、日本の教育界では、それまでの模写中心に代わり、思うままに描かせる“自由画”が提唱され、手軽で描きやすいクレヨンは、子どもの教材にぴったりだと注目された。

夏という季節は子どもに戻れるのかもしれない。そして、子どもが見たままの素直な夏はクレヨンで残すのが一番である。

 

 

今週のお題「わたしの自由研究」

 

日常生活に感じるものは何か

 

かつて流行ったテレビドラマ『ビーチボーイズ』で、民宿の娘を演じた広末涼子さんが言った。<夏のある国に生まれて、私は幸せだと思う>。夏には夏だけの時間の進み方があるような気がするから・・・と。太陽のもと、日常を離れた自由な時だ。

今は日暮れも早く感じ、秋も目前。私はこの時期が好きである。休日の昼など、涼しい風を感じてウトウトするのもいい。

<わずか20分でも、すべての精力を一新するのに十分>。この日課は、何ものにも代えがたかった。この言葉は第二次世界大戦で英国を勝利に導いたチャーチルだ。チャーチルにとって、(午後早くの昼寝は)日々の仕事の能率を非常に高め、1日半の仕事を1日に縮めることができた。

勤務時間内の昼寝は日本でもIT業界を中心に取り入れる企業が増え、グーグルなどの米企業で推奨されているらしい。

 

 

白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」といわれたのは、高度成長期の1960年代前半だろうか。生活が不安定だったその時代は、手が届かないモノばかりであるが、夢は大きかった。

今は家電がすべてそろう豊かな時代である。内閣府の調査(昨年)で、現在の生活に満足と答えた人の割合は74.7%もあった。それは調査開始の1963年以降で過去最高。

また、同じ調査で日常生活に「悩みや不安を感じている」人は63%だったらしい。生活の満足度と幸せは別物なのか。豊かかもしれないが、明日はどうなるかとの不安が過去最高への違和感になる。

私の休日の昼寝前には、軽く一杯がうれしい。日本のアルコール消費量がピークを迎えたのは平成8年で、企業の中間管理職の多くを団塊の世代が占め、そのジュニア世代が社会人として働き始めた頃だ。

バブル経済は崩壊していたが、先輩や上司につれられた“ノミニケーション”の文化は色濃く残っていた。

 

 

平成8年から20年後、酒類全体の販売(消費)数量は、966万キロリットルから841万キロリットルと13%減少した。8年当時の男性全体の飲酒率が52.5%から33%に低下したのも大きな要因か。

今は、日常的にお酒をたしなむ40歳以上の女性の割合が増えているという。厚生労働省の調査で酒を「飲む・飲める」と回答した女性は約30年間で20%程度上昇し、72.9%も飲酒ができるとの結果。

飲酒習慣率(週3日以上、1合以上の酒を飲む割合)では、40代女性が20年間で5.7ポイント上昇し、15.6%と大幅に伸びた。20代男性の飲酒率は10.9%。男性全体でも飲酒率は下がる傾向である。

<男性は健康志向で飲酒量が減り、女性は社会進出が進み、お酒を飲む機会が増えた>。そして、女性が好む商品をメーカーが作り、お酒の種類が充実。女性の入りやすいバーなどの飲食店も増えている。

なるほど。酒場で呑みまくる女性たちを想像する反面、テレビの国会中継でだらしなく居眠りをする男性議員が脳裏に浮かぶ。

 

 

今週のお題「残暑を乗り切る」

ホットとクールなメディアは

 

カナダの英文学者、文明批評家であるマーシャル・マクルーハン(1911年~1980年)は、電波時代の予言者とも言われ、「未来の未来は今にあり」との発言で、未来の兆しを現在に発見する能力の持ち主であった。

「メディア・イズ・メッセージ」という独自の文明論で、世界的に有名になった。それは伝える中身より、伝えるメディアによって、受けるものの質が変わるというものだ。

<話の中身はコミュニケーションのわずか7%のウエイト>だといわれる。どんなにいい話でも受け手は話そのものよりも相手の表情やしぐさ、そして服装などへ9割以上の関心が向く。その残りの93%こそがマクルーハンのいうメディアなのだろう。

なにかのメディアを通じて伝える場合、映画、ラジオ、テレビ、そしてインターネットなどによって、伝え方を変えていく必要がある

 

 

マクルーハンは、映画やラジオをホットメディアと位置付け、テレビをクールメディアとした。映画よりセットが貧弱であるテレビでは、カメラが寄って人物などのアップが多い。それを想定してシーンの場面やセリフを決めていく。

映画では引きの画面が多くなるので、テレビとはちがう。舞台の脚本になると、映画やテレビのようにシーンをいくつもかんたんに切り替えられないため、セリフ主体で物語を進行させる。同じテーマのものでも、媒体に合わせて伝え分ける必要がある。

テレビは家の窓をのぞくような感覚で、映画のような美男美女は映えない。近所にいるような親しみを感じるタレントがウケるようだ。そして、窓の外のようにハプニングに関心が行くメディアでもある。

デジタルハイビジョンは1080本の走査線数にて一枚の絵が成り立ち、毎秒30枚で動画になっている。フィルム映画では、一コマずつが完成された絵になっている。この構成要素の違いでクールとホットが分かれるともいわれる。

 

 

ホットメディアは、熱く高揚するようなイメージであろうか。テレビが普及する前の戦時中では、国民の戦意高揚に映画やラジオが駆使された。

私は湾岸戦争の爆撃シーンをリアルタイムのテレビで観たが、客観的で妙に醒めている自分を感じていた。同じ情報でも車移動の仕事のときなど、カーラジオから得られる情報はテレビと質がちがうのを感じる。テレビよりラジオの方がホットに聴けるのである。

さて、マクルーハンはまだパソコンが存在しない時代から、インターネットのような世界を具体的に唱えていた。それをグローバルヴィレッジ(地球村)と言っている。そして、電子メディアはクールであり、活字メディアはホットであるとも定義している。

今、“デザイン思考”の第1人者である佐宗邦威さんの著書などでは、<手書きメモからアイデアを生む>ことを推奨されている。手を動かすことで右脳からのアイデアが生まれるのだという。なぜか、マクルーハンのメディア論を思い出しながら読んでいる。