日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

右脳の勉強はノートに記して

 

将棋の羽生善治九段の言葉だという。<現代はAI時代ですが、私は勉強するにもノートに記します>。

たとえ画面を見なくても、スマートフォンが目に入れば記憶力や思考力が落ちるという。情報を得たり知人との連絡などと、スマホに頼る場面は多い。

私の場合、スマホの依存度はそれほどではないが、パソコンがなければなにもできない。このままでは怖くなり、最近黒い表紙の(A6サイズ)ノートに毎日、思い浮かぶものを書き込んでいる。漢字を読めても書けなくなっているのが情けない。

スマホを隣の部屋などに片づけ、目の前の課題や人に意識を集中する訓練も、判断力や発想力のアップに良さそうだ。

羽生九段は<将棋において、ある一定のところまで強くなる人は、テクノロジーの恩恵で増える>と言う。そして、その先は個々の創意工夫にかかっている・・・と。

 

 

進化した人工知能(AI)を搭載した将棋ソフトを、藤井聡太七段が使い始めたのはプロ入りする直前。それを踏まえても、羽生九段いわく<藤井七段はデジタル・ネイティブではないですよね。彼は詰将棋など、骨格を作った勉強法がアナログです>と、分析は冷静である。

羽生九段が棋士になって34年、将棋界も情報処理の面で大きく変わった。1980年代は自力で将棋の棋譜をファイリングした純粋なアナログ時代。90年代で棋譜データベースが登場して、細かく分類できる戦術になっていく。

2000年代では、インターネットの将棋サイトでの対局が盛んになり、上達のための将棋の地域格差がなくなった。そして、強い将棋ソフトが現れることになる。

アナログからデジタルとめまぐるしく状況が変わった将棋界を、常にリードしてきた羽生九段は実力もさることながら人気もものすごかった。

 

 

音楽などのヒット推移や人気商品の順位を見る人の反応は、大きく分けて2つあるらしい。1つは人気があるものだから自分も欲しいと思う人。もう1つは同じ理由なのであるが、自分は要らぬという人。

バンドワゴン効果」という言葉は、人気が人気を呼び大ヒット商品が生まれる現象だという。古きアメリカの南部で、楽隊を乗せた馬車を宣伝に用いたことに由来するそうな。

当時の選挙運動で、この楽隊車に有力者を乗せて選挙民にアピールしたとか。勝ち馬に乗る動きによって優勢な方がますます有利になるのも、政治のバンドワゴン効果。まるで、どこかの国のようだ。

堀口大学さんは、夏の隙間に秋の顔がのぞいた時の心境を残した。<盛んなものが落ち目になつて来るのを感ずるほど哀れにも、みじめなものは無い>と。得た票でバンドワゴンに乗って浮かれる政治家たち。

羽生九段や藤井七段のように、アナログで土台を築きデジタルにも向かい自分を磨き続ける棋士がいる。今、時代を見据えて学び続ける政治家たちは、どれくらいいるのだろうか。この日本には・・・。

 

なにごとにも理由はあるはず

 

発声の達人は息をすべて声に変え、ロウソクの前で歌っても炎は微動もしないという。息をしっかり声にする能力に長けているためで、とてもわかりやすい表現である。

その昔、小さな演芸場で出演者の芸に客席が退屈しているとき、係員はある細工をしたらしい。間違えたふりをして幕を10センチ弱おろし、すぐに戻したとのこと。終演が近いことを客に伝えて救いを与えた。

不評だからと高座を投げ出すのではなく、不評でも高座を全うするための細工である。そういう高座から育った達人もきっといたに違いない。

森真紀(まさのり)さんの著書は題名がおもしろい。たとえば、『悪妻盆に帰らず』。ことわざのパロディーらしい。<前菜は忘れた頃にやってくる>では、遅れて来た一皿にはどこか憎めないものがあり、他日の笑い話にも使えるとのことだ。

 

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時事川柳とくれば、その時期を切り取ったパロディーなのか。
<令和では普通になるか40度>(佐藤正弘さん)。<雨傘が日傘にかわる長期戦>(鈴木藤吉さん)。先月末のよみうり川柳にあった。

そういえば昨日の昼間、晴れていた空が突然曇り激しい雨になった。しばらく続いた後に空は晴れてきたが雨も残っていた。日差しの暑い雨で何人もの女性が日傘で雨を凌いでいた姿が、ふしぎでおもしろかった。

危険な暑さが続いたこの夏も、自宅にエアコンがあるのに使わず熱中症で亡くなる高齢者がいた。使わない理由の多くがは「体が冷える」と「もったいない」である。

壁掛け型の室内機と室外機によるセパレートタイプのエアコンは、1968年に三菱電機が発売。勢いよく吹き出す冷気に大喜びしたのもつかの間で、両親は体が冷えるといって嫌がったり、電気代がもったいないという感覚もあり冷気を堪能するには至らなかった。そのときの子どもの世代が今の中高齢者になっているから、なかなか使わない方もいるらしい。

 

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カクテルの王様・マティーニの作り方は、ジンがおおよそ“3”に対して、ベルモットが“1”らしい。これよりもジンの割合が高いものがドライ・マティーニだという。

ドライ・マティーニといえば、俳優の藤竜也さんを思い出す。以前読んだ記事に興味があったからだ。

藤さんが約50年ずっと行きつけのバーは(横浜の港にある)ホテルニューグランドだという。「俳優になってから、ときどき来るようになって、何年もの間、映画の仕事が1本終わると昼間から来て飲んでいた」という。

だいたいビールを飲んで、そのあとはドライマティーニなのだそうだ。ドライマティーニというものを私は飲んだ記憶がない。その店でいつか飲みたいと思うのだが、その機会に恵まれていないままだ。

大好きなあの名曲『横浜ホンキートンクブルース』の作詞は藤さんである。歌詞の中にも“ホテルニューグランド”が出てくる。それだけに憧れが強くなるのである。

「なにかにこだわる」って、理由があるからこそワクワクしてくるような気がする。

 

 

今週のお題「わたしの自由研究」

1年のうちにある「ないまぜ」

 

すでに立秋は過ぎても、子どもの頃の習性か。淋しさと明日への緊張が、ないまぜになる一日がある。たとえば12月31日、3月31日、8月31日・・・と。

うちの近くの小学校は8月26日で夏休みも終わったが、私にとって8月31日と9月1日のちがいは大きい。<8月31日=夏の終わり>だったからだ。

海水浴場の迷子は夕暮れに東の浜で見つかるという。監視員の経験則らしい。不安になると人は太陽に背を向け、西日が砂浜に落とす影を追いながらとぼとぼと歩く。そして東の果てに行きつくそうな。

夏には「良薬口に苦し」みたいな部分もある。なにもつかめないのに暑さに身を置くことで、のみにくくても結果的に服用した人のためになるみたいな感覚なのか。秋になればなんらかの効き目を感じられるかもしれないが、夏にしがみつきたい気持ちは強い。

 

 

夏はある意味、“カンフル剤”の要素もある。かつて、カンフルは精製した樟脳(しょうのう)液で、強心剤として盛んに用いられた。暑さという枷が一時的なカンフル剤にはなるが、涼しくなれば情熱が消え失せて、息長く押し上げることは期待できない。

自分はシャツの裾をズボンに入れると教わった世代だが、1990年代に“入れない派”が拡大した。近年は入れる方が少数派だ。

カリブ・スペイン語の「コティスエルト」とは、シャツの裾を絶対ズボンの中に入れようとしない男の人という意味らしい。<人生も着るものもリラックス>という前向きの言葉だという。

ある中学校の先生がおもしろい実験を行ったという。体操着の裾を入れた生徒と入れない生徒に運動してもらい、その後の体温を調べた。その結果、裾を入れない生徒の体温の方が4度低かったとのこと。

今の酷暑はかつての夏とは暑さの質がちがう。それでも、アナログのアイデアでの対応が可能である。知恵を絞ることの大切さを忘れてはいけない。

 

 

過ぎゆく夏のイメージといえば、(私の場合)幼い子どもが描くクレヨン画の(夏の)風景である。9月になると、そういう絵をたくさん見たくなる。

“クレヨン”という言葉はフランス語で、鉛筆や木炭など、固形の描画材料の総称だったという。顔料と蝋などを混ぜて作るクレヨンは、アメリカで1903年に黒、赤、青、緑などの8色入りが発売された。

当時のアメリカは油田開発が活発で、石油精製で大量に生じる蝋を有効活用した。それが日本へ大正初期に米国から輸入され、1920年代には国内に多くの製造業者が誕生したのだ。

日本で独自に油などを加えて軟らかくした製品が開発されると、急速に普及。大正時代、日本の教育界では、それまでの模写中心に代わり、思うままに描かせる“自由画”が提唱され、手軽で描きやすいクレヨンは、子どもの教材にぴったりだと注目された。

夏という季節は子どもに戻れるのかもしれない。そして、子どもが見たままの素直な夏はクレヨンで残すのが一番である。

 

 

今週のお題「わたしの自由研究」

 

日常生活に感じるものは何か

 

かつて流行ったテレビドラマ『ビーチボーイズ』で、民宿の娘を演じた広末涼子さんが言った。<夏のある国に生まれて、私は幸せだと思う>。夏には夏だけの時間の進み方があるような気がするから・・・と。太陽のもと、日常を離れた自由な時だ。

今は日暮れも早く感じ、秋も目前。私はこの時期が好きである。休日の昼など、涼しい風を感じてウトウトするのもいい。

<わずか20分でも、すべての精力を一新するのに十分>。この日課は、何ものにも代えがたかった。この言葉は第二次世界大戦で英国を勝利に導いたチャーチルだ。チャーチルにとって、(午後早くの昼寝は)日々の仕事の能率を非常に高め、1日半の仕事を1日に縮めることができた。

勤務時間内の昼寝は日本でもIT業界を中心に取り入れる企業が増え、グーグルなどの米企業で推奨されているらしい。

 

 

白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」といわれたのは、高度成長期の1960年代前半だろうか。生活が不安定だったその時代は、手が届かないモノばかりであるが、夢は大きかった。

今は家電がすべてそろう豊かな時代である。内閣府の調査(昨年)で、現在の生活に満足と答えた人の割合は74.7%もあった。それは調査開始の1963年以降で過去最高。

また、同じ調査で日常生活に「悩みや不安を感じている」人は63%だったらしい。生活の満足度と幸せは別物なのか。豊かかもしれないが、明日はどうなるかとの不安が過去最高への違和感になる。

私の休日の昼寝前には、軽く一杯がうれしい。日本のアルコール消費量がピークを迎えたのは平成8年で、企業の中間管理職の多くを団塊の世代が占め、そのジュニア世代が社会人として働き始めた頃だ。

バブル経済は崩壊していたが、先輩や上司につれられた“ノミニケーション”の文化は色濃く残っていた。

 

 

平成8年から20年後、酒類全体の販売(消費)数量は、966万キロリットルから841万キロリットルと13%減少した。8年当時の男性全体の飲酒率が52.5%から33%に低下したのも大きな要因か。

今は、日常的にお酒をたしなむ40歳以上の女性の割合が増えているという。厚生労働省の調査で酒を「飲む・飲める」と回答した女性は約30年間で20%程度上昇し、72.9%も飲酒ができるとの結果。

飲酒習慣率(週3日以上、1合以上の酒を飲む割合)では、40代女性が20年間で5.7ポイント上昇し、15.6%と大幅に伸びた。20代男性の飲酒率は10.9%。男性全体でも飲酒率は下がる傾向である。

<男性は健康志向で飲酒量が減り、女性は社会進出が進み、お酒を飲む機会が増えた>。そして、女性が好む商品をメーカーが作り、お酒の種類が充実。女性の入りやすいバーなどの飲食店も増えている。

なるほど。酒場で呑みまくる女性たちを想像する反面、テレビの国会中継でだらしなく居眠りをする男性議員が脳裏に浮かぶ。

 

 

今週のお題「残暑を乗り切る」

ホットとクールなメディアは

 

カナダの英文学者、文明批評家であるマーシャル・マクルーハン(1911年~1980年)は、電波時代の予言者とも言われ、「未来の未来は今にあり」との発言で、未来の兆しを現在に発見する能力の持ち主であった。

「メディア・イズ・メッセージ」という独自の文明論で、世界的に有名になった。それは伝える中身より、伝えるメディアによって、受けるものの質が変わるというものだ。

<話の中身はコミュニケーションのわずか7%のウエイト>だといわれる。どんなにいい話でも受け手は話そのものよりも相手の表情やしぐさ、そして服装などへ9割以上の関心が向く。その残りの93%こそがマクルーハンのいうメディアなのだろう。

なにかのメディアを通じて伝える場合、映画、ラジオ、テレビ、そしてインターネットなどによって、伝え方を変えていく必要がある

 

 

マクルーハンは、映画やラジオをホットメディアと位置付け、テレビをクールメディアとした。映画よりセットが貧弱であるテレビでは、カメラが寄って人物などのアップが多い。それを想定してシーンの場面やセリフを決めていく。

映画では引きの画面が多くなるので、テレビとはちがう。舞台の脚本になると、映画やテレビのようにシーンをいくつもかんたんに切り替えられないため、セリフ主体で物語を進行させる。同じテーマのものでも、媒体に合わせて伝え分ける必要がある。

テレビは家の窓をのぞくような感覚で、映画のような美男美女は映えない。近所にいるような親しみを感じるタレントがウケるようだ。そして、窓の外のようにハプニングに関心が行くメディアでもある。

デジタルハイビジョンは1080本の走査線数にて一枚の絵が成り立ち、毎秒30枚で動画になっている。フィルム映画では、一コマずつが完成された絵になっている。この構成要素の違いでクールとホットが分かれるともいわれる。

 

 

ホットメディアは、熱く高揚するようなイメージであろうか。テレビが普及する前の戦時中では、国民の戦意高揚に映画やラジオが駆使された。

私は湾岸戦争の爆撃シーンをリアルタイムのテレビで観たが、客観的で妙に醒めている自分を感じていた。同じ情報でも車移動の仕事のときなど、カーラジオから得られる情報はテレビと質がちがうのを感じる。テレビよりラジオの方がホットに聴けるのである。

さて、マクルーハンはまだパソコンが存在しない時代から、インターネットのような世界を具体的に唱えていた。それをグローバルヴィレッジ(地球村)と言っている。そして、電子メディアはクールであり、活字メディアはホットであるとも定義している。

今、“デザイン思考”の第1人者である佐宗邦威さんの著書などでは、<手書きメモからアイデアを生む>ことを推奨されている。手を動かすことで右脳からのアイデアが生まれるのだという。なぜか、マクルーハンのメディア論を思い出しながら読んでいる。

 

成し遂げる人はやばい習性も

 

すごいことを成し遂げる人は業が深く、やばい習性もあるらしい。それは、波乱万丈の振れ幅が、凡人よりも激しいということでもあるようだ。人生の“すごい”絶頂と“やばい”破滅は表裏一体なのだろう。

興味深い話はやはり“やばい”方なのか。『平家物語』に記述される源義経は、“ちびで出っ歯”だといわれ美少年のイメージとは異なるようだ。

卑弥呼は、引きこもりのおばあちゃんだったという説もある。武田信玄は美少年好きで、ラブレターを送りまくってフラれていたり、坂本龍馬は13歳までおねしょをしていたとか。

勝手に美化されていたイメージが裏切られ、英雄たちが我々の身近に感じられてうれしくもある。

 

 

昨年、東大教授・本郷和人さん監修の『やばい日本史』が話題になった。聖徳太子足利尊氏徳川家康など日本史に名を残した偉人たちの表と裏のエピソードが記されていて楽しめる。

文化人では、紫式部清少納言のバトルもあったらしい。面識はなかったようだが、清少納言紫式部の夫の悪口を言ったことで紫式部が感情を害し、日記に<人より偉いとかん違いしてる>などと綴ったそうな。まるで今のSNSの小競り合いみたいである。

徒然草には、法師になって説教で生活しようとした人の話があるという。その人が横道にそれる様子を描いたのは吉田兼好だ。

法事で迎えの馬をよこしてもらっても落馬しては情けないので、乗馬を習った。また、法事の後の酒席で芸のないのは興ざめと考え、歌謡も教わることにした。

 

 

そして、乗馬と歌謡に磨きをかけるうち、説教を身につける時間がないまま年をとってしまったという本末転倒のお話である。兼好は、目標を決めたらその一事に専念すべきなのだ、と説いた。

長嶋茂雄さんが現役のころ、三塁の守備についても自分の打撃が気になりグラブを手にスイングの動作をしたことがあった。有名な話である。

巨人監督・川上哲治さん(当時)はそれを見逃さず、試合後に人前で厳しく叱責したのだ。スター選手も特別扱いをしなかった川上さんの指導を、野村克也さんは著書『エースの品格』で称えた。

指導者の鞭が、人々に“ミスター”と敬愛される稀有の野球人をつくったのだろう・・・と。

上に立つ人が後進に授ける「み」の字はとても深い。“スター”を“ミスター”として天上に輝かせもし、心の未熟を放置して地べたに叩き落としもするからだ。

そういえば、現在の「ミスター・プロ野球」はいったい誰なのだろう?

 

隠居には好きなことが似合う

 

通信の主役が固定電話から携帯電話に移る中、(2017年度末の時点で)固定電話の契約数は1987件だという。2000万件を割り込んだのは1971年度以来で46年ぶりだった。ピークの97年の6322万契約から約3分の1の減少である。

加入電話の全国一律(ユニバーサル)サービスは、維持費がかさみNTT東西の加入電話事業の赤字が約800億円だという。加入電話や携帯電話の利用者は現在1番号あたり月2円を負担しているとのことだ。

自分の感覚では、年配者の方が固定電話にこだわりが強いのではないかと思う。本当は必要がないのに捨てられない。今や固定電話は詐欺グループの絶好のアイテムなのに、なくては困るような錯覚をしている。

新明解国語辞典』(三省堂)によると、【隠居】とは仕事や生計の責任者であることをやめ、好きな事をして暮らすことらしいが、過去のしがらみに縛られることもある。

 

 

<ボランティア 30分で 英雄に>(黒田鐵雄さん)。一年前の“よみうり時事川柳”にあった。いろいろな事件が続くおかげで、まだ一年前だったのか、とあらためて感じる。

山口県周防大島町の親戚宅に来ていた2歳の子どもが、三日三晩を外で過ごしながら無事に保護された。どこからともなく現れた78歳の男性が、行方不明の男の子を山中から見つけ出したのだ。

その英雄は、65歳で魚屋を引退したあとに「世の中に恩返しがしたい」と、新潟県中越沖地震東日本大震災でもボランティアをしていたという。人助けが“好きなこと”だというご隠居なのである、

終戦後、外相や首相を歴任した吉田茂さんの懐刀に白洲次郎さんがいた。この方の人助けぶりもスケールが大きい。「ばか野郎!」が白洲さんの口癖の一つだった。

イギリス・ケンブリッジ大に留学した経験があり、流ちょうな英語を話した。日本の占領政策を担ったGHQ(連合国軍総司令部)の米国人らと対等に渡り合い、「唯一従順ならざる日本人」と(GHQに)いわしめた大物である。

 

 

1954年、白洲さんは雑誌にエッセイを発表している。GHQの大部分の人々が<無経験で若気の至りとでも言う様な、幼稚な理想論を丸呑みにして実行に移していった>という。

大国と勝算のない戦いに挑んだ戦前の軍部や、止められなかった自らの世代への憤りや情けなさも、強く感じていたはずだ。とはいえ、GHQが日本人を飢え死にさせないだけの食料をくれたことへの感謝も書き記した。

いつの世も時代は流れ続ける。おばあさんが川から桃太郎を拾い上げて、おじいさんと一緒に育てる。異界からやってきた子を迎え入れるには、この世の常識にしばられた壮年男女よりも、世代の離れた老人夫婦がいいようだ。

昔話のおじいさんとおばあさんは、今の世と異界を結びつける役回りらしい。その昔、<7歳までは神のうち>といわれた子どもも、まだこの世とあの世の向かいに生きる存在なのらしい。

 

付加価値が主役に躍り出る

 

ヒネリや機知に富んだ話が好きである。“失敗は成功の元”とは、、こうすれば失敗するということを学ぶことであり、まちがってもすぐに訂正できる方法を知ることは大事。

失敗の許容範囲を知るのと知らないのではその差が大きい。また、若いときの心配はたいていが取り越し苦労のようでもある。

<会話ってのはキャッチボールやで。投げるだけじゃなくて、受けなあかんで。相手の話をうまくキャッチして、相手の受けやすいところに投げ返さなければいけない>。これは、さんまさんの言葉らしい。

知り合いにマラソン好きの女性がいる。毎日のトレーニングは欠かさない。何年も前のある日のこと、汗だくで買い物をするのはいやなので、走る前に自転車でパンとりんごを買って前カゴに入れたまま、練習場所の大きな公園に駐輪した。

 

 

園内をぐるぐるランニングして戻ってみると、りんごがかじられて、5枚切りのパンが中身だけ抜かれて、袋だけが残されていた・・・とのこと。

カラスの仕業かな、と思ったのだが、カラスがパンだけを抜くことも考えられず、腹が立ったと言っていた。それって、浮浪者のしわざかもしれないね、と私は応えたが、ご本人には気の毒だと思うが、なんかマンガみたいで想像するだけで笑ってしまう。

それよりもっと以前に、皇居近くの日比谷公園へ行ったとき、おもしろい光景を見た。公園のベンチで浮浪者が居眠りしていたのだが、脇に置いていたパンをカラスが盗み食いしているのだ。彼女の話を訊いた時、そのときのシーンがすぐに浮かんできた。

カラスは人間が思う以上に賢いかもしれない。現在も生ゴミを廃棄する曜日は多くの仲間が集まり、大声で鳴いて食料確保の情報交換をしているみたいなのである。

 

 

車がコンピュータと化して、あらゆるデバイスとつながろうという時代に、クマなどの野生動物も人里へ食料を漁りにくる。この先、アナログとデジタルがますます複雑に入り組んでくるみたいである。

コンピュータがまだ珍しいとき、今はハードが主流だがこれからはソフトの時代になると、よく聞かされた。ハードとソフトの意味や関係がピンとこなかったが、パソコンが出始めてそれが具体的になった。

その昔、他人の子どもであろうと子どもが悪さをすれば、叱りつけるカミナリおやじがどこの町内にもいた。最近は、それも聞かなくなった。その分、やさしい人が増えたのだろうが、無関心な人も多いだろう。地域のしつけ役としてはありがたい存在だった。

住宅街を歩くと、子どもたちが遊んでいた痕の落書きを見かけることがある。今の子たちも昔の子どもと同じでなんだかうれしい。道路でキャッチボールをする子どもも見かける。

これからデジタル化する車に、アナログの遊びをする子どもがうまく認識できるのだろか。車のみならずドライバーにも、(道路標識以前に)道の落書きは徐行標識と同じ、とのインプットを施してもらいたい。

 

よきライバルと粋で付き合う

 

<本当にベストだったと思うためには、自分のみならず相手のベストも必要だ>。現役だったイチローさんが雑誌のインタビューに答えたときの言葉だと記憶する。

<はたちの日 よきライバルを 君に得て 自ら当てし 鞭いたかりき>。こちらは西条八十さんの葬儀にて堀口大学さんが捧げた弔歌だという。ふたりの詩人には「負けてなるか」と競い合う青春があったのだ。

映画『明日に向って撃て!』で共演したポール・ニューマンさんとロバート・レッドフォードさんは年の差11歳だが、よきライバルだった。

その友情は映画の中だけではおさまらない。車のレーサーでもあるポールさんはロバートさんに会うと、うんざりするくらいに車の話をしたそうな。

ポールさんの誕生日が近づき、ロバートさんは絶好の誕生日プレゼントを思いついた。ポンコツのスポーツカーを廃車業者で選び、赤いリボンをつけてポールさんの自宅に届けさせたという。

 

 

その反応を楽しみにしていたロバートさんだが、ポールさんからはなんの連絡もない。そしてある日、ロバートさんの元へ奇妙な届きものが・・・。

それは、ポンコツ車をプレスした梱包であり、ロバートさんの家のリビングの床が抜けた。無言のうちに交わしたふたりの会話を想像すると愉快である。まるで、悪ふざけで通じ合う粋な映画のようでもある。

生きていることへの喜びや幸せが“生きがい”なのか。その年齢に見合った値打ちだと“年がい”ということになりそうだ。それにふさわしくない行動では“年がいもない”と眉をひそめられる。

とはいえ、気心の通じる相手には、いくつになってもヤンチャでいられることで、どこか温かいものが漂う。

 

 

「かけがえのない」という言葉は、“掛け替えのない”ということで代わりがないという意味らしい。人に対してや、モノや出来事との出会いなど、あらゆることで使われる。どういう形でも、“かけがえのない”ことが増えると人生が豊かになりそうである。

さて、次の言葉はお気に入りなのであるが、私は一度も使っていないだろう。

「あたぼう」である。漢字では「当坊」と書くそうで、文政期に流行した当たり前を意味する言葉だという。

<「あたりまえだ、べらぼうめ」のことだが、そんな長い言葉を使ってみろ。日の短い時分には日が暮れちまうし、温気の時分には言葉が腐っちまう。それで詰めて“あたぼう”ってんだ・・・>。

落語『大工調べ』にて、与太郎へ大工の棟梁が「あたぼう」のいわれをレクチャーするシーンのセリフである。上述のポール・ニューマンさんとロバート・レッドフォードさんが使っていたとしても、まったく違和感のないノリのいい言葉である。

こういう粋で楽しい言葉はドンドン使わないと、人生を損するような気分になってきた。

 

授かった2つの耳と1つの口

 

<この面相で、この脳みそで、この運動神経で、この環境で・・・。どうやって面白く生きていこうかってのが、人生だと思うんですよね>。俳優・山崎努さんの言葉だったろうか。

人は自分の気づきたいことしか気づけない生き物だという。

人間術として勉強させていただいたのは、『逆転の発想』の糸川英夫さん、『逆発想』の竹村健一さん、『私の知的鍛練法』の竹内均さん、『知的生活の方法』の渡部昇一さんたちで、多くの著書を読ませていただいた。頭のいい人ほど、物事を噛み砕いてくれる。

古代ギリシャの言葉らしい。<天は人に2つの耳と1つの口を与えた。だから話すことの2倍だけ聞かねばならない>と。

格言や名言にも、“話す”ことより“聞く”ことに重きを置いたものが多い。口は自分の声を外側に押し出すものであり、耳は他人の声を内側に受け入れるもの。だから、耳の使い方は難しい。

 

 

利害の反する2人を前に、片方の耳を閉じて一方の言い分のみを聞き入れたばかりに、取り返しのつかない結果を招くこともある。

夫婦間の暴力や児童虐待、子から親への暴力、ストーカーなど、かつては近所のおじさんやおばさん、学校の先生や職場の上司、同僚が仲裁して円満に解決していた。

(核家族化とともに)24時間型社会になり、深夜に出歩く人も増えた。人の動きがあれば事件や事故も起きる。警察なら人がいるからと夜間にも困りごとの相談が絶えないとか。警察の分担領域がどんどん広がる。

昨年に全国の警察が摘発した“親族間の殺人事件”は418件で、全体の殺人事件での47.2%を占めた。殺人事件の半分は、家庭内で起こっているのである。

「同族嫌悪」という言葉があるらしい。自分に似た容姿や性質を持つ人に対して抱く悪感情で、鏡に映るもう一人の自分を見ているようで、いたたまれない気持ちになる。とはいえ、自宅にいても落ち着けないのは困りものである。

 

 

殺されるのはゴメンだが、だれもが死からは逃れられない。病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝付かずにピンピンコロリ(ぽっくり死)を望む人は多いようだ。

ある緩和ケア研究振興財団が一昨年の12月に、インターネットで全国の20~79歳の男女1000人を対象に、“死に方”のアンケートを行ったという。

理想の死に方について全体の78%が「ぽっくり死」と回答し、60歳代は89%に達した。また、「病気などで徐々に弱って死ぬ」と答えたのは22%だった。

配偶者とどちらが先に死にたいかで「自分が先」と答えたのは、既婚男性78%で既婚女性は50%。先立たれて心配なこととして、「家事をきちんと行えるか」が男性で、女性は「悲しみから立ち直れるか」が最多とのことだ。

余談だが、「天文学者の99%は宇宙人がいると思っている」という記事を見た。これだけ宇宙が広ければ、宇宙人も必ずいる。我々だけが特別ではない・・・のだと。まったく同意見である。さて、宇宙人も“2つの耳と1つの口”なのだろうか。