日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

ブログのエッセンスを顧みて

 

ブログを始めて今年で9年。ずっと暗中模索である。その前は、(インターネット創生期の産物であった)メーリングリスト(ML)の書き込みを18年。オーナーとして16年弱続けてきた。多くの人と出会い、ネット以外にも飲んで遊んだ。

そこでは返信(レス)モードの短文が中心で、長い文章を書くことに苦手意識を持った。その克服のために100編のエッセイを書きたいと考えた。下書きにでもなれば・・・と、ブログを始めた。

まず、わかりやすい文章を書こうと考えた。読む側の目線で、よい文章の条件とは“わかりやすい”こと。自分で何を言いたいのかがわかっていれば、難しい言葉を使わなくてもわかりやすく平易な文章が書けるはずだ。

 

 

週一のペースで続けて、エントリ数が100になった。目標は終わったが、その時期にカメラを手に入れた。好きな写真でも残せれば、とブログの方向転換を試みた。

写真を4分割に貼り分けると、上下の5列に写真の説明分を書くだけ。それぞれ2行もあれば書けるのでたった10行ですむ。

たまにコメントをいただいた。アップした写真のことだけかと思いきや、文章の内容についても書いていただいた。写真の説明だけのつもりだったのにふしぎだった。それがきっかけで、写真と本文の主従関係が入れ替わった。

人の目につくところに書くのだから、読まれることは意識している。書く内容に関して、アイデアが閃いたら実行(文章)に移す。アイデアはちょっとした思いつき。ふとした思いつきは誰にでもある。思いつきを実行に移すか、そのままにしてしまうかが、分かれ目である。

読まれることのアウトプットが先で、インプットの文章を逆算して書く。私自身、読まれること(可能性)がなければ、サボッて書かなくなるのがわかっている。アウトプットを前提としたインプットは強いのである。

 

 

クォリティが高い記事かどうかは、読む人が決めること。それを気にしていたら前に進めない。読む人が、そうそう・・と思わず納得してしまう内容を書けたらうれしいが、ウケ狙いが見えたら面白味がなくなってくる。読んで、なんの衒(てら)いもないお話に接すると、我がことのように感じて共感できる。

ネットの一般化以前は、情報を得るために書店や古書店、図書館へ出向いたり、百科事典や辞書を活用していた。インターネットでかんたんに情報が得られる時代は、そこが落とし穴にもなりかねない。

自分の足で情報を得る経験があると、その情報の真実性や鮮度を見抜く感覚が養われて、インターネットにもその感覚が活きるはず。書き手が、人のためになるように・・・などというのもおこがましい。逆に、「教えて下さい」くらいに委ねた方が、読者の気持ちをくすぐるのでは。

ブログのネタに頭を悩ますこともある。料理に喩えて、食材であるネタ元がわからないくらいに調理できるのが理想であるが、自分はまだまだ未熟である。

 

 

今週のお題「桜」

長い花見の時代もあったとか

 

明治33年(1900年)、ソメイヨシノが(学術的に)桜の新種として認められたらしい。

それまでの花見ではどのように桜を鑑賞していたのだろうか。作家・藤井青銅さんによれば、昔の桜の名所は、“群桜(むれざくら)”だったという。

エドヒガン、ヤマザクラオオシマザクラなどの種が、いっしょに同じ所に植えられた。そのため、咲く時期や色彩が異なり1ヶ月間に渡ってのんびり楽しむのが元来の花見であった・・とのこと。

ソメイヨシノは見頃が1週間続くかどうかである。年に一度の花見だけにせきたてられる気持ちになり、否が応でも盛り上げられてしまうのだ。

 

 

3月27日のこと。東京都足立区千住曙町の荒川に停泊中の屋形船から出火、同船が全焼したという。燃えたのは約80人乗りの屋形船で、花見客ら20数人を乗せて出航する予定であった。

屋形船に乗っていた従業員は「芋の天ぷらを調理中に火を消し忘れ、休憩に入ってしまった」と説明した。調理などの準備を船内で天ぷらを調理中、油に引火したようだ。(たった一週間のための)花見の準備もたいへんなことで、危険が伴うようだ。

<逝く空に桜の花があれば佳(よ)し>。国民的歌手といわれた三波春夫さんの句である。2001年4月14日に77歳で死去した。

この方を“演歌歌手”と一括りにはできないだろう。前回の東京オリンピック大阪万博のテーマソングを歌い上げ、国民を大いに盛り上げた歌手である。幅広いジャンルの楽曲を明るく伝え、楽しませてくれた。

 


昭和の時代は“歌謡曲”と呼ばれ国民に親しまれたが、当時の若者達が自分で歌を作りそれを歌い始めて、歌謡曲との名称は廃れていった。そして、既存の作曲家、作詞家の楽曲を歌う歌手たちは、“演歌”というジャンルに封じ込められた形になっていく。

本来の歌謡曲が復活すればいいのに、といつも思う。年輩者が集うカラオケスナックでは、昭和の歌謡曲が響き渡り、ときには合唱している。当時に生まれていない若者も見事に歌いこなしていておどろく。

三波春夫さんの歌がテレビで放送されることは少なくなったが、流行する歌の移り変わりは社会の空気の変化と関連するようだ。

<春の人けふの泊りを思はざる>(零雨)。春には旅気分にさせられる。一杯飲みながらの列車旅も格別だ。陽気に誘われて足の向くまま、気の向くままのドライブもいい。そのときは、歌謡曲を口ずさんでいるかもしれないが。

 

ウソの裏にある大胆な大雑把

 

<さまざまの事おもひ出す桜かな>。松尾芭蕉の句である。人が桜に惹かれるのは、眺める度にうれしかったり悲しかったりする。そして、共に刻んだ記憶がよみがえるから・・・と。

3分咲きや5分咲きと、桜の開花を数値化するのは、本来 無理な話らしい。木は1本ごとに異なり、見る人の感じ方も様々なのである。自分も、それ咲いた、と鵜呑みにして右往左往した経験がある。

以前、日本年金機構が委託した業者のデータ入力で約95万2000人分にミスがあり、入力漏れの約8万4000人分で過少支給が判明。この問題はもう解決したのだろうか。

まさかスキャナーで読み取っているとは知らず、見逃してきた機構のチェックの甘さとずさんな業務管理に、厚生労働省幹部もあきれた・・・と言っていた。

 

 

2人1組で手入力をする本来の入力方法のはずが、スキャナーで紙のデータを読み取っていた。主なミスの原因は業者の契約に反した入力にあり、機械が誤認識した漢字などと、配偶者の所得区分を示す丸印も誤って認識された。

実にずさんな話である。委託先に問題があるといえども、処理現場の視察が全くされていなかったことが露呈。責任逃れなどできぬはず。

昨年は、ある地方の信用組合で、支店勤務の女性職員が、計4743万6000円を着服していた。同信組は元職員を懲戒解雇したというが、支店名や元職員の年齢を明らかにせず、警察への被害届も出していなかった。まさに「くさいモノにはなんとか」だ。

その職員は窓口業務などを担当し、金庫からの現金出し入れの責任者だった。2004年10月~17年12月の間、月に1回程度で金庫内の1万円の札束の中を千円札に入れ替え、500円硬貨の袋の中身を10円硬貨に入れ替えて着服をした。

金庫内の現金は他の職員が定期的に検査するはずだが、札束や硬貨の袋をきちんと確認していなかったという。

 

 

ウソをつくと鼻の周囲の体温が上がるという研究論文もある。それは“ピノキオ効果”と呼ばれ、ウソの説明をするほど“言葉数が増える”との調査結果であった。

疑われまいと必死で、過剰に乱暴な言葉づかいになることもある。余裕がないと表現にまで気が回らず、“それ”とか“その人物”などの三人称代名詞が多用されたりもする。なんとか自分との距離をあけて、関係の薄さを強調したくてたまらないからだ。

歌人穂村弘さんは桜の花が咲きそうになると、“変に焦る”らしい。焦る理由として、<いつ、桜を見たらいいのか分からない>、<どうせ見るのなら「最高の桜」を見たい>。

そんな気持ちが強くなり、いつがいいだろう、などと迷っているうちに、時間がどんどん過ぎてしまう。そしてその結果、<ちゃんと桜を見ないままに春が終わってしまう>のである。

三分でも五分でも、散り際でもそれぞれの良さがある。桜はウソをつかないので、見に行けばきっとその時が最高の“今”になるだろう。

 

春なのに気になるのは脳の話

 

明治時代に来日した米国の女性旅行家エライザ・ルアマー シッドモアさんの著書『日本・人力車旅情』は今なお読み継がれているらしい。

<桜のつぼみが顔を出し、膨らみ、徐々に花開く、これは一般大衆の主要な関心事である。だから地元紙は、開花予想など桜の名所からの速報を毎日つたえる>。

花が咲くという当たり前の自然現象が、報道の対象になるなど他ではありえない・・・と。今も、桜の開花情報が大きなニュースになる日本の春におどろく外国人はいるだろう。

老若男女や身分の違いを超え、江戸の昔から春らんまんを等しく分かち合う花見。その季節がやってきた。

 

 

日本は四季にメリハリがある。その“春・夏・秋・冬”は人生に喩えられることも多い。“青春”などの言葉のイメージで、人生のスタートが春に置き換えられることがある。

成人の年代をむかえて自分は「まだまだ若い」と感じるか、「もういい歳になった」と感じるか。私は常に後者の“もう・・・”である。

その意識は30代になっても、40代になってもまったく同じ。70代、80代になっても、自分の人生の時間経過の早さにおどろかされるはず。それは、脳の錯覚なのだろうか。

自分の一番若い日といえば今日の「今」である。オギャー!と産声をあげてから、今日にいたるまでいくつになっても、「自分の一番若い日」は「今日の“今”」の連続に他ならない。歳を重ねるたびに子どもと大人の境目が、いつなのかわからなくなる。

 

 

脳の細胞の数は約140億で、赤ちゃんも大人も同じらしい。からだの細胞は新陳代謝を繰り返すが、脳は25歳を頂点として毎日10万の細胞が失われるそうな。

からだに流れる血液量は1分で5~6リットル。1時間ではなんと風呂桶一杯分にもなる。(毛細血管も含めた)血管をつなげると長さが地球を2周半とのこと。

そして、脳の労働量はすごい。脳の重量が体重の1~2%に対して、脳に使用する血液量は20%なのである。脳の使用率はたったの3%で、97%が潜在脳ともいわれる。それ以上の使用では血液の供給が追いつかないからなのだろうか。

脳は、「爬虫類脳・哺乳類脳・霊長類脳」の3層構造になっているという。左脳は自分脳で(生まれてからの)自分だけの人生の歴史を認識するらしいが、右脳は先祖脳であり自分脳の10万倍の(人類祖先の)歴史を司る。

左脳の自分だけの人生体験に対して、先祖脳の右脳は神秘的な宝庫なのである。そうなると人の一生がどんどん短く感じて、死ぬまで大人になりきれないままなのではないのか・・・と思えるようにもなってくる。

 

人の意識と思い込みについて

 

刑事コロンボ』の主役として知られる米国の名優ピーター・フォークさんが、亡くなる前にアルツハイマー症候群が進行し、自身がコロンボを演じたことも忘れてしまっていたという。

人間の意識や思い込みについて、考えることがよくある。思い込みについては、年齢に関係なくついてまわるものだ。

サザンオールスターズがデビューした時、私は彼らをコミックバンドだと思い込んでいた。デビューの『勝手にシンドバッド』という曲名からして、当時のヒット曲名を2つパクり、組合せたものだった。ステージではラテンタッチな演奏の中、桑田佳祐さんがジョギングパンツとランニングで駆け回っていた。

いとしのエリー』というバラードをヒットさせたが、それは冗談かシャレだろうと思った。今も私の頭の中で、サザンはコミックバンドであり続けている。

昨年大晦日、紅白の最後のシーンなど、まさしくその真骨頂を見た気分であった。

 

 

地理での高さは標高と呼ばれる。平均海水面の高さを基準とした標高は海抜で、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差を比高というらしい。

東京スカイツリーは、全高(尖塔高)634mである。東京の観光名所として長年君臨していた東京タワーの高さは、すっかりおなじみの333m。スカイツリーは東京タワーより301mも高くなっている。

日光東照宮周辺の標高は634mで、スカイツリーとほぼ同じ高さとのこと。一昨年の秋に行き、その看板を見ておどろいた。そこから、いろは坂を抜けて華厳の滝中禅寺湖へ向かった。中禅寺湖の水面標高は、その2倍である1269mなのだという。あの大きな湖がそんな高いところに浮かんでいることを知り、2度目のビックリであった。

山の上にあると思えば納得もできるが、スカイツリーの前に立ち、ツリー2本を積み上げた高さに、大きな湖が存在することは(頭で)結びつきにくい。

 

 

数年前にカルロス・クライバーさん指揮のコンサートを衛星放送で見た。その指揮のすばらしさで、瞬時に魅了されてしまった。

その表現力は、手話を越えた体話みたいである。すてきな笑顔とからだの動きで、演奏者たちを楽しく導く。そして、演奏を指示しながら自らも観客として楽しんでいるようにも感じた。指揮者は第1番目の観客なのかもしれない。

カルロス・クライバーさんの世界は格別であった。テレビ画面に映るその姿で、演奏者も観客も、そして(時空を超えて)視聴する者も一体化して戯れられる。

アンコールの定番『ラデツキー行進曲』では、観客に向かって拍手で参加させる。

そのテンポや強弱、指揮のうまさで、拍手が楽器へとなり名演奏をしているような気分にさせられる。まるで、催眠術にかかったように・・・だ。

<仏作って魂入れず>。立派な仏像を作っても、肝心な魂が入っていなければどうしようもない、という言葉である。魂を入れることに長けた人間もこの世に存在したらしい。

 

マーチャンダイジングの発想

 

ミステリー作家の内田康夫さんは、広告制作会社の経営者だったという。ピアノ、絵画、将棋やマージャン、囲碁と多趣味でもあった。ミステリー小説を43歳で初めて書いた。それが最後の趣味となる予定だったらしい。

江戸川乱歩賞に応募するも落選。しからば・・と、自費出版してみたところ編集者の目にとまった。

<小説は、まず読まれることが必要です>。読後感を悪くしないよう、意味のない暴力やポルノを描かなかった。作家になっても、仕事に対する考え方は変わらなかった。それは、“ふさわしい商品”を市場に提供するマーチャンダイジングの発想であった。

消費者の要求や欲求に合う商品を、適切なタイミングで提供するための企業活動といえば、大量生産・大量販売の20世紀に急成長を遂げ、世界市場を席巻したかつての日本家電メーカーが思い浮かぶ。

 

 

創業者の松下幸之助さんが大阪市で設立した製作所は、ソケットなどのヒット商品を生み、戦前に株式会社として松下電器産業に改称した。そのパナソニック(現在)は、昨年に創業100年を迎えた。

戦後も家電業界のトップを走り、テレビや洗濯機を普及させた。家電メーカーが世界に飛躍した背景には激しい競争もあった。

シャープは国産テレビ第1号を開発し、ソニーはテープレコーダーやビデオなどのパイオニア的な新商品を開発した。

かつては、松下ならぬ“真似した電器”とも言われ、今では“パナそっくり”と。

パナソニックは他社が先行発売して人気になった後に、自社製品を投入してシェアを奪った。その背景には、系列販売網と量産化の技術があったことはいうまでもない。

 

 

新商品に長けたソニーはモルモットと揶揄されたことがある。ソニーの創業者のひとりである井深大さんは、<モルモットで結構。我々は業界のモルモット、つまり先駆者としての役割を今後も担っていく>と応じた。

松下幸之助さんは、事業部制導入などで“経営の神様”といわれた。その土台にあった経営理念とは<水道水のように製品を安く大量に供給しようという「水道哲学」>である。

1990年代以降、円高や人件費の安いアジア企業の台頭で家電業界は劣勢に陥った。パナソニックも、巨額投資したプラズマテレビ液晶テレビとの競争に敗れ、巨額の赤字に沈んだ。

“モノづくり”はハードウェアの機能を競う時代から、AIとIoTを活用した“コトづくり”を競う時代へと移行中のようだ。しかし、商品の質が変わろうとも、マーチャンダイジングの発想は大事である。

もし今、この時代に松下幸之助さん、井深大さんをはじめとした各日本家電メーカーの創業者たちがお元気で生きておられたら、どのような状況に変わっていたことであろうか。

 

伝説の魔球は無意識的な記憶

 

ふだん気にしないような味覚、嗅覚、聴覚から、埋もれていた過去が、奇跡のように立ち上がることがある。フランスの小説家マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』にてそれを「無意志的な記憶」と名づけた。

サザエさん”では、磯野家にトースターがきたのは1955年で、マスオさんはそれを「パン焼き器」と呼んだ。波平さんが60年代には、カラーテレビの値下がりを待とうと思う場面もあった・・・らしい。

リアルタイムではないが、初めて触れる家電に対する記憶はわが身も同様だ。

現役時代は代名詞でもある“高速スライダー”を武器に数々の伝説を残してきた右腕。記録より記憶に残るのは伊藤智仁投手である。それも、無意志的な記憶として・・。

史上最強の変化球として語り継がれている“魔球"の原点は社会人時代にあった。スライダーは持ち球にしていたが、当時はカーブの方が自信があり、決め球にはほど遠いかったらしい。

 

 

当時の社会人野球は金属バットの全盛期であった。バットの芯を外しても、スタンドインする場面を何度も経験していた伊藤智仁投手は大きく曲がる、(バットに当てさせない)変化球の取得を考えていた。

後にプロ入りする野茂英雄投手はフォーク、潮崎哲也投手はシンカーを武器に活躍した。金属バットに当てさせないのが一番の近道として、武器を持つ必然性があったのだ。

変化が大きくてもキレがない、キレがあっても変化がない。伊藤投手は試行錯誤を繰り返し、悩んでいた時期に先輩投手からヒントとなる握りを教わった。そして、投げ方と握りをアレンジして、すぐにゲームで使ってみた。

同じ配球で投げても、バッターの反応が違うのがわかった。「明らかに違うよ」と捕手からも言ってもらった。

生まれ変わったスライダーという武器は面白いように、相手打者のバットを何度も空を切らせた。自分のスライダーは<誰がやっても投げられない>。プロデビュー前に抱いた確信である。

 

 

一番変わったのは曲がり幅で、そのイメージは速く・大きくであった。腕を振る感じとしては、ストレートが8割なら変化球は10割と(ストレートより)大きかった。ヤクルトで、ルーキーイヤーの春季キャンプのとき、活躍する先輩投手と比べて、やっていけると感じた。

1993年4月20日に先発で初登板。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。

その年は前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。7月4日の登板を最後に戦線離脱しシーズン終了まで復帰はならなくとも新人王を受賞。

2ヶ月半、全投球数1733の登板過多でのひじ痛・肩痛であった。

当時の監督・野村克也さんは、<稲尾和久伊藤智仁。こういうのを天才って言うんだよ。プロ野球史上最高の投手>と評した。

現役通算37勝27敗25セーブ、防御率2.31。

テレビの野球中継で、たった一度だけ伝説の魔球を見たことがある。伊藤智仁投手が放つ一球一球で、中継アナと解説者がどよめいて言葉にならなかった。

 

ことばの表現はわかりやすく

 

<世の中は三日見ぬ間に桜かな>(大島蓼太)。江戸中期の一句である。3日ほど見ていなかったその間、桜の花が咲いていた・・との情景。そろそろ、この時期である。

転勤、引っ越し、卒業の時期でもある。門出を祝い贈る品物やお金、言葉などに使われる“はなむけ”の“はな”は“花”ではなく、向けるのは“馬の鼻”だという。昔、旅人は乗った馬の鼻先を、これから進んでいく方角に向けて安全に旅ができるように祈ったとのこと。

<世の中は三日見ぬ間の桜かな>。こちらは、すぐ花の散る桜に世の変化の激しさを喩えた警句だ。

谷川俊太郎さんの言葉にある。<成人とは人に成ること>。政府が成人年齢を20歳から18歳に引き下げても、今の世に起きている多くの事件では、いくら歳を重ねようとも人となることはむずかしいようだ。

何事にもわかりやすい表現は大事だ。

 

 

<本来は大統領や首相が受けるべき平手打ちや蹴りを、彼らに代わって受けさせるために巧妙につくられた政治的な仕組み>。『悪魔の辞典』の著者である米国の作家アンブローズ・ビアスは、「行政府とは、何のために存在するか」について、こう説明した。

また、英国の作家バーナード・ショーは、“うそつきが受ける罰”について<人に信じてもらえなくなることではない。他人を誰も信じられなくなることである>と言った。

1945年(昭和20年)8月、終戦前の霞が関の官庁街で、建物の庭先から煙が上がった。資料や文書を焼却せよとの指示が政府から出たからだ。何日もその作業が続き、あの戦争で誰がどんな指示を出し、どう決まったのかという多くの真実が葬られた。

しかし、そのことが日本にとり、重大な失敗になっていく。他国から戦争中の行いを非難されたとき、「そんな記録はない」と反論しても「焼き捨てたんだろう」と言われればそれで終わり。政治・軍事の当事者たちには、歴史に対する責任感がなかったようだ。

 

 

“文書主義”といえば、わずらわしい役所の書類仕事が思い浮かぶ。8世紀の日本では大宝律令で、唐をまねた文書主義が導入。中央と地方の連絡などに膨大な文書が作成された。

昨年、財務省の森友文書「書き換え/改ざん」問題で、麻生財務相は改ざんにかかわったのは理財局の一部という。役人の勝手な小細工が悪いのだと。その役人を租税徴収のトップに厚遇し、率いる行政の病理にうわべを取り繕い、国民の信頼を失墜させた責任は眼中にない。これが上述の“政治的な仕組み”なのか。

安倍首相はこの財務相に真相解明を委ねた。本来、受ける立場の平手打ちや蹴りなど、どこ吹く風の如くに。

物事にはやり始めがある。“出はな(出ばな)”は“出鼻”とも書く。顔から突つき出た端(はな)の部分が“鼻”である。馬の鼻先を向けて、安全に旅ができそうな舵切りには長けているが、蹴った後ろ脚にどれだけの人が埃をかぶればいいのだろうか。

 

私の部屋がカラオケボックス

 

若い頃から飲み歩きが好きだった。ただ、ひとりで飲むことはまれである。酒の席で話し相手がいないと間が持たないからだ。

最近は用事で外出した際、昼間に時間があくとお気に入りの場所でワインをひとり楽しむ。行きつけのイタリアンレストランの名は“サイゼリア”。

以前、俳優・津田寛治さんがテレビで言っていた。<サイゼリアのワインをひとりで飲むのが好き。ベロベロになっても会計で1000円超えたことがない>と。まったく同感である。安くておいしいあのワインに合うおつまみも揃っている。

数年前に“家飲み感覚の居酒屋”が現れ話題になった。600円でアルコールドリンク等が持ち込み放題。グラスや氷は無料サービス。なくなると、外の酒屋さんへ買い出しにいける。

腰をすえて飲むと、おつまみの料金以上に酒代が料金の大半を占めることがある。“家飲み感覚の居酒屋”は、おつまみ料金だけで売り上げを賄うらしい。

 

 

ちょうどその頃、仕事が早めに終わり夕方前に焼鳥屋へ入った。その店は久しぶりだったが、19時前までアルコールドリンクの半額サービスで、すべての種類の焼鳥が99円のサービス料金だ。いい気持ちで精算してもらうと、一番高かった品はお通しの300円であった。

呑兵衛にはありがたいものの、居酒屋戦線はたいへんなことになっていることを知った。最近、友人と行くカラオケスナックも、こんなに安くていいの? と思うありがたさである。

カラオケとのつき合いも40年以上。初期は8トラといわれた8トラック・カートリッジテープの機器で、店のコーナーに設けられたステージにて、歌詞本のページをめくり歌ったものである。

まだカラオケボックスも存在せず、歌いたいときには女性のいる割高なお店に行くしかなかった。歌詞カードだけの頃には歌い出しに気を遣い緊張したものだが、レーザーディスクでモニターが付くと、かんたんになった。

 

 

バブル期のよき時代は、各テーブルのお客さん同士で、真剣に歌合戦が始まったりもした。それぞれに持ち歌があり、見ず知らずのお客さんたちがリクエストし合うこともある。

カラオケボックスもよく利用したが、今はひとりカラオケも目立つ。管楽器を持ち込んでカラオケと共演している方も見た。

ひとりカラオケの経験はないが興味はある。カラオケの自分史を楽しめそうだし、友人たちと歌うためのレッスンもできる。ただ、(恥ずかしいというか)その勇気がなくて未体験のままである。

その矢先に「ひとりカラオケ」のセットがあることを知り、ネットでポイント購入をしてみた。「DAM」のネット配信も登録して始めると、わが部屋がカラオケボックスに変身。

余っているスピーカーセットでいい音を堪能できたり、ヘッドフォンと防音マイクにすれば夜遅くてもOKだ。時間のあるときは思う存分遊んでいる。そして、歌のうまい友人との対戦がどんどん楽しみになってきた。

 

静かなるビートルの音楽活動

 

今、ジョージ・ハリスンベスト・アルバム『レット・イット・ロール ソングス』を聴いている。“ビートルズ”というおごりもなく、新人歌手のようなやさしい歌声。丁寧な楽曲作りである。

こころの中にスーッと入ってきてくれる。そうそう、これがビートルズなんだよ。そのエッセンスをあらためて感じる

ビートルズを初めて体感したのは1966年の来日のとき。テレビのブラウン管に映る4人のメンバーの姿を見た。彼らの楽曲よりも、そのビジュアルに接するのが先だった。

当時の人気音楽番組『ザ・ヒットパレード』でスリーファンキーズなどが、和訳で歌っているのをテレビで視聴はしていたが、(ビートルズの名前を漠然と知っていた程度で)当の本人が彼らであったのを知った瞬間であった。

 

 

ブラウン管経由の彼らを見ると、それぞれの個性が際立つため、名前と顔がすぐに暗記できた。4人のメンバーで真っ先に目についたのはジョージ・ハリスンであった。一番目立たなく感じたのは、ジョン・レノンであった。

ビートルズに興味を持ち始めると、ポール&ジョンの才能が際立ち、お気に入りのジョージはグループ内で控えめで、目立たない存在に感じた。その後もビートルズの動向は気になるものの、あまりにも大騒ぎされるため、かえってのめり込むようなことはなかった。

ビートルズの解散が散々噂された後期に、ジョージはインドに興味を持ち(インド楽器の)シタールを取り入れ、楽曲に使ったりした。

他のメンバーもインドにおもむくが、ジョージのようには馴染めず戻っていく。宗教のからみもあったようだが、ジョージが精神的に入り込んでいるような気はしなかった

 

 

解散後のメンバーたちのソロ活動として、ポピュラー性の強いポール・マッカートニーはその方向でがんばっていたが、ビートルズ時代の才能の切れは感じられない。ジョンはカリスマ性がどんどん強くなり、ファンを熱くさせる部分が強くなっていく。

ビートルズが解散して最も活発に音楽活動を展開したのはジョージ・ハリスンだったともいわれる。それまで、遠慮がちだったジョージも自らの個性を表現しようとし始めた。

ジョージが亡くなり、この秋で18年。センセーショナルなジョンの最期とちがい、ひっそりと亡くなったような印象がある。線の細さが気になりつつ、他のメンバーに負けずにがんばってほしい、と無意識の中でジョージを応援していた。

ソロアルバムを聴けば、アルバムの中にジョージが生きている。生のジョージにやっと出会えたという思いにもなる。彼らしく澄んだアコースティックな部分がたまらなく好きだ。

ジョージ・ハリスンは欧米で、“静かなビートル (Quiet Beatle)”とも呼ばれていたらしい。