日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

痛勤にて座るための生存競争

 

通勤や通学で往復の満員電車は、だれにとっても“苦痛の種”であろう。全国の通勤・通学の平均時間は1日あたり1時間19分だという。(2016年・総務省実施の「社会生活基本調査」より)。最長は神奈川県で、全国平均より26分長い1時間45分。次いで千葉県、埼玉県、東京都と続く。

空席をねらって座ろうとする乗客がひとつの席を争うのは日常茶飯事のこと。私自身も長距離通勤でまったく座れないとき、目の前に座っていた男子学生が途中下車をして、その席に座れたことがあった。

それからは、その学生の顔を憶えておいて、彼の前に立つようにしていた。しかし、他の乗客たちも同じことを考えているらしく、学生の座る前の立ち位置の奪い合いのような状況におちいった。

当の学生は、またか・・というようにうんざりした顔になっていた。

 

 

それから後に、別の職場へ通うことになった際、上述の学生と同じ立場になったことがある。朝の通勤で、私が降りる手前の駅から乗ってくる30代か40代の男は、一目散に私の姿を追い求めて、私の目の前の吊り革をつかむのだ。毎朝、私の座る席がターゲットにされていた。

まさか自分がつけ狙われて、貼りつかれるとは思いもしなかった。なんだか、その男にストーカーをされているようで気持ちが悪い。私の前に立たないでくれ、といつも念じるのだが、その男は必ず私を探し出す。

車輛や座席をつねに別の場所に変えればいいのだが、なかなか座れる席が確保できず、座れる確率の高い席をやっとの思いで見つけた矢先であった。

たまに、その男が現れる前に別の乗客が立っていてくれるときは、心の中で拍手喝采した。そういうときは、例の男はうらめしそうに私を一瞥して、別の席の前に立つのだ。

 

 

私が座るいつもの席と別の席に座れることもある。そういうときは例の男を隠れるように観察してみる。あの男は当然に今までの立ち位置を目指して乗り込むが、私のことを確認できず、いつもの席のあたりをうろうろして私を探すのだ。

男は席そのものより、途中下車する人間が目的なのである。私が見つからないと、となりの車輛に移動してまで探していた。

いつもはストーカーの被害者気分であったのに、あの男を観察してみると自分が逆ストーカーになっていくような気持ちになっていた。

頭の中で、別のイタズラ心が芽生えた。私が平日の日に休み、いつもの出勤姿でいつもの席に座るのだ。そして、その男が私の前に立ち、私がいつもの駅で降りるとアテにしているところで、その駅に降りずに座ったままで乗り過ごす。

寝たフリでもしながら、その男の反応を見てみたい・・・。しかし、それは実現できず空想だけで終わってしまったが。

 

便利機能の便利さが増すとき

 

<あくびをしながら物を噛もうたって、無理なんだよ>。落語「搗屋幸兵衛“つきやこうべえ”」の一節である。2つのことを同時にするのは難しいものだ。昨年、全国大学生協連が大学生の一日の読書時間を調べたところ五割超が「ゼロ」と回答したそうな。

おもしろそうな本があるのに自分は読んでいない。なんだか損をしていないか。世間から取り残されているのではないか。読書時間もなかなかとれない。結果、焦る。本好きだった私もそんな気分になった。

やがて、パソコン通信からインターネットへとハマり、本を読む時間は激減した。今は情報収集も、スマートフォンで用が足りる。学生たちもアルバイトや就活で忙しいはずだ。

働き盛り世代の人や若者たちに、「スマホ認知症」の症状を持った人が増えているという。物忘れなどで、外来を訪れる患者の若年化がどんどん進んでいるらしい。

 

 

認知症を専門とするクリニックでは、認知症にならないような世代の受診がここ数年は増えている。患者の3割は40代~50代で、20代~30代が1割だという。

脳が健康な状態を保つためには、情報を脳に入れることとその情報を深く考えてバランス良く行うこと。スマホの登場で現代人は“情報入手”だけが多い状態になっているようだ。情報で“オーバーフロー”となった脳は過労状態になる。

そのため、物忘れや感情のコントロールができず、うつ病認知症と同じ症状が引き起こされる。スマホ認知症は生活習慣を変えれば改善するという。そのために必要なのは“ぼんやりタイム”。集中して何かをした後にぼんやりする時間が脳には必要なのだ。

とはいえ、IT機器は進化し続けて、ぼんやりもしていられない。例えば、米グーグルでは音声認識ができるAI(人工知能)「アシスタント」をあらゆる機器へ搭載しようとしている。

 

 

グーグルは“AIの生態系をつくりたい”らしい。AIスピーカー等の音声応答機能を、テレビや車など より幅広い端末・機器への搭載を検討。アシスタントとウェブやアプリとの連動をしやすくしている。

家庭用のスピーカーを使えば、習慣になるほどに使用頻度が高まっていく。私も、“グーグル”、“アレクサ”とお話をしない日がない。

音声応答機能は、マイクさえあればどんな端末にも搭載ができて、ディスプレーの限界にも左右されない。人とかわしている会話の感覚で、いろいろな内容にでも対応できるのだ。

ただ、便利さが増すほど危うさや脆さが潜むこともあるだろう。誰もが使えるグーグルの「ストリートビュー」で高級住宅を探し、盗みを繰り返したという事件が、実際に大阪で起きている。

音声応答機能も使いようによれば、最高の盗聴器として、悪の手先になる可能性もあるはず。そうなれば情報の漏洩場所も、家庭、クルマ、電車内・・・などと、あらゆる範囲で起こりかねないのである。

 

2パーセントを攻める伝統芸

 

先日、『大脱走』という映画がテレビ放映されたので録画をして観た。1963年に公開された(戦闘シーンのない)集団脱走を描いた戦争映画である。リアルタイムの映画館では観ていないが、レンタルビデオの時代に借りて観たのだと思う。

内容は観て知っている、とずっと思い込んでいたが、ストーリーに記憶違いがあった。スティーブ・マックイーンがドイツ軍から奪ったオートバイで、追手を振り切る有名なあのシーンはラストで、見事に脱走できた・・・と勝手に勘違いをしていたのである。

ところが捕らえられていて、収容所へ逆戻りであった。記憶とは実に曖昧なものだ。

こちらも戦闘シーンの登場しない戦争映画であった。『戦場のメリークリスマス』(1983年公開)である。『大脱走』と同じく、先の戦争を背景に敵と味方の間に芽生えた友情を描く物語である。坂本龍一さんによるテーマ曲は今聴いてもすばらしい。

 

 

ビートたけしさんが演じる捕虜収容所の軍曹ハラと、捕らわれの英兵は心を通わせるが、終戦で立場が逆転してしまう。クライマックスは、戦犯となり処刑を控えたハラの房を英兵が訪ねるところなのか。

<勝利がつらく思われるときがあります>。涙で頭を下げる英兵の場面がそこにあるらしい。たけしさんのすごみのある笑顔がアップで映っていたと思うが、ストーリーは私の頭の中でつながらない。

2人は戦争ゆえに出会い、そして引き裂かれた。大島渚監督は強い反戦の訴えとともに、争いのただ中でさえ魂の交わりを深める人間の姿をも強調したかったようだ。

印象的なシーンといえば、英軍少佐のデヴィッド・ボウイ坂本龍一さん演じる大尉の頬にキスをするシーンと、存在感があるたけしさんの荒削りな演技であった。

撮影完了後、大島監督はたけしさんにお礼の挨拶をするためテレビ収録現場へ伺ったという。“タケちゃんマン”に扮した たけしさんが出迎えたらしい。

 

 

子役時代はテレビでお見かけしたが、生の舞台で観ることは叶わなかった。18代目中村勘三郎さんである。母方の祖父に6代目尾上菊五郎さん、父は17代目中村勘三郎さんと、名優の血を引く“歌舞伎の子”であった。

老若の観客で「平成中村座」の劇場を満員にしたり、野田秀樹さんを脚本・演出に迎えて歌舞伎座をわかせる。地道な古典芸能の守り手であり、現代をも意識した攻めの人であった。

<歌舞伎は98%が伝統で、97%になると歌舞伎ではなくなる>。市川団十郎さんが文芸春秋の対談で語っていたことがある。われわれが様々に模索しているのも、先祖たちがつくった98%の残り、2%の中なのです・・・と。

観客の高齢化も避けられない。人気の歌舞伎にもいずれ、試練が訪れないとも限らない。18代目中村勘三郎さんは若い人にもわかりやすい歌舞伎に注力されていたようである。98%を守ってよし、そして2%を攻めてよしのあの名演が懐かしい。

 

似ていても違う生存の仕組み

 

座禅は知っていたが、こちらは初耳であった。俳人金子兜太(とうた)さんは80歳を過ぎてから立禅(りつぜん)を日課にするようになったという。亡くなった肉親の名、友人知己や恩師、先輩を次々に心の中で唱えるのだという。

それぞれの思い出も頭の中を断片的によぎっていく。そして、自分の中ではみんな生きているように思えるのだという。その数は120~130人だという。

この立禅を30分近く行うと、その日の暮らしがすっきりと豊かな気分になったそうな。そして、“死んでも命は別のところで生きている”と実感する毎日だった。

ドラマやバラエティでも親しまれた俳優の大杉漣さん。昨年、突然に亡くなったこの方も、命はきっと別のところで生きているように感じる。大杉さんは舞台を中心に活躍する中、オーディションで見いだされて出演した1993年の映画『ソナチネ』(北野武監督)の暴力団幹部役で注目された。

 

 

<はじめてオーディションみたいの受けたとき、オーディション行ったのはいいんですけど、会場に入ってスタッフの方がいらしてボクのことをチラッと2秒ぐらいしか見ないんですよね>。大杉さんが、当時のオーディションについての感想だ。

<2秒見て、はいお帰りくださいってスタッフの方がおっしゃるんですよ。何が起きたのかっていう感じでした>。

ドアを開けてすぐ閉めたって感じですから。たけしさん、確実にそこにいらしたから、間違いはなかったと思うんですけど・・・と。その2日後にお電話いただいて、あんたでいくよって、お電話いただいたんですけどね。なぜボクなのか未だに分かりません、との思いであった。

日活が若さあふれる青春ものに無国籍アクション。東宝では、駅前シリーズや社長シリーズ。松竹がしみじみと胸に迫るホームドラマ。その昔の日本映画には、会社ごとに具体的なカラーがあった。

 

 

俳優、監督そしてスタッフも専属だから、お家芸に磨きをかけられた。そのシネマ全盛期を支えた体系にも弊害があった。各社でスターの引き抜きを防ぐ協定を結び、守らぬ俳優はどの会社にも使われなくなった。

その問題に切り込もうとしたのが公正取引委員会であったが、ほどなく先導役の大映が倒産して協定が自然消滅した。人を縛りつけているうちに、産業自体が傾いたようである。

映画製作に様変わりはあっても、今も映画産業は存続している。妙な喩え話になるが、細菌とウイルスでは増殖の仕方の違いがあるという。似たようなものでも、生存の仕組みはかなり違うのだ。

菌は周りにエサがあれば、自分の遺伝子(DNA)を複製しながら増えていくという。対してウイルスにはその能力がない。人間など他の生物の細胞に入り込み、その複製機能を借りて自らを増殖させる。

昔と今では、映画製作費捻出等の違いが、よく似ているような気がしてくる。

 

 

今週のお題「雪」

常に一期一会であること・・・

 

千利休の茶道の筆頭の心得だという。<あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものである。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう>。そのことが“一期一会”なのであろう。

少し掘り下げてみれば、<これから何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれない>という覚悟で人には接しなさい、との気持ちにつながる。

一期一会はぜったい“今”にある。ふだんの中にある“あたりまえ”にこそ、気が付かないモノが多く含まれるからだ。

 

 

親と過ごす瞬間、子どもと過ごす瞬間。これも一期一会だと感じる。かつて、子どもや孫でにぎわった家庭も、今はひっそりとしている。この数年はとくに、夫婦だけとか、ひとりでの生活を余儀なくされている方たちも増えている。

それぞれの地方では、駅前の商店街がシャッター街に変貌していたりもする。かつてのにぎやかさは、つい昨日のようだった。

バブル景気で浮かれているとき、人手不足のためよく働きそれ以上によく遊んだ。あのにぎやかだった“今”も長くは続かなかった。

 

 

人生は“今日”の“今”の連続である。だれもが、その中に身を置きながら“今”しか生きられない。産声をあげたときや息を引き取るときも、そのときの“今日”の“今”である。“今”のこの瞬間のドット(小さな点)がつながって線になる。それが人生なのだろう。

人との出会いだけではなく、今の自分と出会うこともなによりの一期一会といえそうだ。

売れっ子だった芸能人や歌手の人たちは、頂点の時期を回想してみて、まったく憶えていないということがよくある。まるでそのときは、自分自身がコントロールできていなかったかのようにである。

自分の顔を肉眼で見られないのと同じに、他人の時間は見えても自分の時間が見えにくい。<人の振り見て我が振り直せ>。この言葉も時間軸でみれば、一期一会にたどり着くのかもしれない。

 

舌先三寸みたいな統計の数字

 

古い小噺らしい。ある人は願いごとがあり、願をかけて3年間酒を断つことにした。でも、やっぱりつらい。一案が浮かんだ。その期間を6年間に延ばして、夜だけは飲んでもかまわないことにしよう。

夜だけにしたが、物足りない。そこで断酒の期間を12年間にして毎日、朝晩飲むことにした。実に勝手な禁酒方法であり、何年でも続けることができる。(『統計でウソをつく法』より)。

1898年の米西戦争の期間中、米海軍の死亡率は千人につき9人だったという。そして、同期間のニューヨーク市内における死亡率は千人につき16人。この数字を使い米海軍は、海軍に入った方が安全だと宣伝していたとか。

数字には罠があるらしい。ほとんどが健康な青年である海軍に対し、ニューヨーク市民には高齢者や病人、赤ん坊もいる。死亡率は当然 高くなる。その死亡率の比較に意味はないが、数字で示されるとうっかり信じてしまう。

 

 

さて、こちらの数字は信頼できそうである。まだ食べられるのに廃棄されてしまう“食品ロス”。それを減らそうとする取り組みに注目が集まっている。年間で、日本には632万トンもの食品ロスがあるらしい。売れ残りや返品、食べ残しなどでの推計だ。

この量は、国連が世界中で支援している食料の約2倍であり、日本の国民1人あたり茶わん1杯分の食料を毎日廃棄していることになるという。コンビニの弁当や総菜は消費期限が近くなれば廃棄される。外食での宴会料理の残りも気になるところだ。

国連食糧農業機関親善大使・中村勝宏さんによると、世界では飢餓人口が約8億1500万人に上り、世界の9人に1人が満足に食べられないという。

中村さんは、2008年の北海道洞爺湖サミット総料理長を務めた方である。食品ロス削減に関しては、日本が海外に見習う点も多いとのことである。

 

 

フランスのレストランで約14年働いた中村さんは、日常の食生活で様々な工夫がなされているように感じたという。毎週末、フランスでは各家庭がマルシェと呼ばれる市場で、地場野菜など1週間分の食材を買い込む。

残った野菜は葉っぱ1枚も捨てず、鍋で煮込み、クリームやバターを入れて、野菜のうまみがぎゅっと詰まった自家製のスープにしているとのこと。身近にある食材を工夫して、無駄なく安価に一皿を作る姿勢は、料理人の使命でもある。

飲食店では最近、魚や肉の骨を取り除き、切り分けられた状態で専門業者から仕入れているところが増えているらしい。骨からは料理の基本となるうまみのあるだしが取れるので、廃棄されるのはもったいないという。

新鮮な魚のあらでは、それだけで南仏料理の「スープ・ド・ポアソン」(魚のスープ)が作れるらしい。そして海外では、外食で食べきれなかった料理を、持ち帰る動きが広まっているとも言われる。

日本に関しては食品衛生上、持ち帰りは難しいらしいのだが・・・。

 

人生の大先輩のエピソードは

 

どんなことでも、人生の大先輩のエピソードは興味が尽きない。『雨』などで知られる作家サマセット・モームは晩年、生涯最高の感激は何だったか、と問われ答えた。<戦場の兵士から「あなたの小説を一度も辞書の世話にならずに読んだ」という手紙をもらった時だ>と。

競馬を愛した作家・菊池寛さんが世に広めたという。<無事之(これ)名馬>。けがをしない丈夫な馬こそが名馬の印。馬主でもあった菊池さんは自分の馬が心配で、とにかく無事でいてほしいという願いもあったようだ。

“なつメロ”という言葉は、50年ほど前に懐かしい歌を集めたいくつかの番組が人気を得るようになり、“懐かしのメロディー”からの略が一般的になったらしい。1968年の大みそかに、当時 誕生したばかりの放送局だった東京12チャンネル(現・テレビ東京)が歌番組を企画した。

 

 

NHKの“紅白”と無縁になった東海林太郎さんや淡谷のり子さんたちの出演で、番組名は『なつかしの歌声大会』。予想外に高視聴率を記録したことで、なつメロがクローズアップされた。

また、なつメロ歌手というレッテルを貼られることを嫌って、出演拒否する歌手も出てきた。“なつメロ”とのネーミングで過去の歌手のイメージがつくのを恐れたのである。

とはいえ、なつメロはその歌でその時代までタイムスリップできる“時代の歌”でなくてはならない。世代間や人によってなつメロの楽曲は違ってくる。そんな歌を持つ者だけが、名誉のなつメロ歌手になれるのだ。

テレビ東京の大みそかの番組は、『年忘れにっぽんの歌』と改題され、一昨年で50回を迎えた。高視聴率を記録して、「こちらが本当の紅白みたいだ」という声の中、なつメロはスタンダードナンバーと呼ばれるようになっていく。

 

 

2度めの東京オリンピックが来年へと迫っている。前回の映画『東京オリンピック』(市川崑監督)は、家屋破壊のシーンから始まる。クレーンにつり下げられた鉄球が古い建物を打ち砕く。

<こんな記録映画があるか。撮り直せ>。試写を観て罵倒したのは五輪担当相の河野一郎さん。市川監督は、河野邸を訪ねて直談判したという。

「マラソンのコースは平坦な道を選んだのに、君は坂道ばかり撮った」。「カメラは正直です」。丁々発止のやりとりがあったが、最後は河野さんが市川監督の熱意に負けて承諾した。

封切られたその映画は、観客動員約1800万人という空前の大ヒット作になり、カンヌ国際映画祭の賞にも輝いた。ある人は真似る者なきモダンな感覚に賛辞を贈り、ある人は“光と影”の映像美を称えた。

その魅力の内側にある支柱とは、政界の大立者が相手であろうとも、芸術家としての能力を信じて一歩も引かぬ市川監督のプライドであったに違いない。監督は、『ビルマの竪琴』、『犬神家の一族』など数々の映画や、テレビ時代劇『木枯し紋次郎』で、鬼才の名をほしいままにしている。

 

スリリングだったラジオ放送

 

ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』は、1967年10月の番組開始以来とラジオの長寿番組である。ニッポン放送をキー局とするラジオの深夜放送である。他局にも深夜放送はあったが私の住むところでは、ニッポン放送の感度が一番良かった。

“フォークル”ことフォーク・クルセダーズが1967年に出した『帰って来たヨッパライ』は、深夜放送から火がつき、シングル・レコードはミリオンセラーとなった。メンバーとして活躍した きたやまおさむ(北山修)さんは、『戦争を知らない子供たち』や『あの素晴しい愛をもう一度』などの作詞でも知られ、精神科医の仕事を続けながら、音楽活動を行っている。

1970年代には、自切俳人(ジキルハイド)と名乗り、同番組の覆面ディスクジョッキーも務めた。

 

 

「深夜放送は現実に対する、もう一つの時間や空間の発見だ。DJもリスナーも、みんなが同時間帯に起きて、聴いているという連帯意識みたいなものがあった」と、きたやまさん。当時の若者たちの解放区として深夜放送は、思いを率直に歌うフォークソングのブームを支え、斬新な表現も受け入れた。

オールナイトニッポン』では、吉田拓郎さんが(最初の妻と)突然の離婚宣言。生放送が終わるのを狙い、深夜に報道陣がスタジオへ群がった。長渕剛さんは(のちに結婚をする)ゲストの石野真子さんを放送中熱く口説いた。

番組冒頭でスタッフと衝突し灰皿を投げつけて帰り、番組に丸々穴をあけた売れっ子の歌手&俳優もいた。テレビで見られぬ大物アーチストたちの、楽しい会話や弾き語りのセッションもあった。

テレビというメディアに追いやられた形のラジオは、新しい形態へ変わり若者たちへの発信源として人気を博した。

 

 

“タモさん、チーさま”と呼び合うほどに仲の良い、タモリさんと松山千春さんの絡みもあった。どちらもデビューしてすぐの頃だった。同じ曜日の一部と二部を担当して、(夜中の3時に)タモリさんが千春さんへバトンタッチするときの会話が楽しかったのだ。

なにが起こるかわからない深夜生放送のリアル感はとてもおもしろかったが、ラジオは昼間もなにかが起きる。

土曜日の昼だったか、沢田研二さんがラジオ番組を持っていたことがある。その時期に、ジョン・レノンが亡くなった。そして、そのときの沢田さんのコメントが忘れられない。

5年間の主夫生活を終え復帰するというジョン・レノンであった。アルバム『ダブル・ファンタジー』の発売から間もなく射殺された。享年40歳。記念すべき作品が遺作になった。

沢田さんは、アルバム収録曲『スターティング・オーヴァー』の曲名と、皮肉な運命を重ねて悔しさをにじませた。

<もしジョンが復帰前もアーティストとして充実な時間を過ごしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない>と語った。その怒りと悲しみはラジオという媒体を通じて、ストレートに伝わってきた。

 

豪商と庶民のちがいは宿泊費

 

昨日、麻疹(はしか)の記事が新聞に2件載っていた。大阪市阿倍野区あべのハルカス近鉄本店で、従業員が相次いではしかに感染。市保健所は14日、新たに客6人と従業員1人の感染が判明したと発表。従業員の感染は計10人で客と合わせた感染者が計16人。

1月から9階で開催していたバレンタインフェア会場の販売担当・従業員10人(10~40歳代)のうち8人が発症。客の男女6人(10~30歳代)は、1月26~27日に会場を訪れていたという。

次は、はしかに感染した40歳代の女性が、2月8~10日に新幹線で“新大阪~東京”間を往復した。その女性は発熱や発疹を訴えて、13日に感染が判明。府は、乗客に感染の恐れがあるとして、注意を呼びかけている。

 

 

自分が子どもの頃も、はしかやインフルエンザはあった。学級閉鎖もあったが、その体験の記憶はほとんどない。感染が広まることもあったが、新聞などで特定されて報じられることはなかったように思う。

今と昔の情報を比較すると、新たな発見があるかもしれない。その観点でいけばこの人の話は実におもしろい。歴史学者磯田道史さんである。

磯田さんが訪れた京都・寺町通の古本屋で、店の人が奥から汚れた怪しい箱を出してきた。大和高田(奈良県)の薬種商・喜右衛門という男が遺した古文書がぎっしり詰まっていたとのこと。

江戸後期の庶民の旅費は1日あたり400文とされる。当時の1文は米価換算なら現在の約10円だが、労賃換算では同50円になるそうな。旅費は1日2万円で、江戸と京大坂は往復で約40日かかれば、現在の約80万円の旅費がかかることになる。それでも庶民の倹約旅行の場合だという。

豪商は1日約700文で旅をしていた。庶民との違いは宿泊費で「酒宴や女郎遊びに興じるなどの楽しみを多く享受していたため、金額の相違が生じたものと推測」されている。

 

 

今回みつかった喜右衛門の道中記には、道中の「女郎」に関する価格と出費を詳述していたという。磯田さんいわく<私は、江戸後期の売買春の費用的実態がわかると思ったから、“箱ごと全部”この史料を譲ってもらい分析をはじめた>とのこと。

さて、“いつをもって成人とみなすか”の議論は江戸の昔からあったようだ。儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)が徳川吉宗の内命を受けて著した書物『太平策』のなかに、元服を早める当時の風潮を嘆いたくだりがある。

<修養の足りない者が大人の扱いを受けている様子はあたかも「匕首(あいくち)に鍔(つば)を打ちたるよう」>。つまり、小刀に不釣り合いな鍔をつけたよう・・・だと。

大人とは何だろう。ある辞書では、「自分の置かれている立場の自覚や自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う」とあった。

<人間ができるまで十七年か七十年かは人によりけり>。歌人・小池光さんの一首だ。道理で、私は大人になった気がしていないワケである。

 

容量不足も様変わりは極端に

 

2018年に国内で生まれた赤ちゃんは92万1千人。統計開始(1889年)から最少だった2017年より2万5千人少なく、3年連続で100万人を割り込む見通しだという。百万人を回復することはこの先、恐らくないのでは・・とも懸念される。

2025年になると、人口ピラミッドのピークを形成してきた団塊の世代は皆、75歳以上になる。今から介護施設や高齢者施設の不足が囁かれる。

日本の社会では、団塊の世代の成長に合わせて教室を増やし、雇用を創出し、住宅を確保し、都市空間を整備させてきた。その最終段階ともいえる局面が迫りつつある。

人口重心」という言葉があるらしい。私たち一人一人の体重が同じと仮定した場合、日本全体でバランスを保てるようになる場所のことだという。

 

 

5年ごとの国勢調査のたびに発表される人口重心。2015年に総務省が算出したところでは、岐阜県関市の武儀(むぎ)東小学校から東南東へ約2.5キロの地点である。

1965年には長良川の西側、岐阜県美山町(現山県市)に人口重心があったそうで、東南東方向へ毎回数キロずつずれており、この50年間で長良川を渡り27キロも動いたことになるらしい。

そのベクトルが東京へ向かっているのはまちがいがなさそうだ。少子化の対策や東京一極集中の是正などを掲げ、政府が「まち・ひと・しごと創生総合戦略」である地方創生の5年計画を策定したのは2014年の末であった。

「2060年に1億人程度の人口を維持する」ことを目指すとともに、ここをしのげばその先に大きな器が必要になる世代は存在しない・・・ともいわれる。

 

 

社会は容量不足の恐怖から解放される、と考えることができそうだが、大きな器は持て余すものらしい。そのときは、広がりきった戦線を縮小し、いかにコンパクトな社会につくり直すかが課題になりそうだ。

どの人の人生も、時代の背景を抜きには語れない。作詞家・西條八十さんは若い頃、東京・兜町に入り浸ったことがあるという。実業家の父がなした財は道楽者の兄に使い尽くされた。

西條さんは詩で身を立てたかったが、暮らしのために家財を質入れして得た3千円で株を買った。その当時は第一次世界大戦による好景気で、含み益は30万円に膨らんだ。銀座の一等地が、1坪数百円という大正期の話であった。

<僕の野心はせめて50万円儲けて>と売り抜けをためらったために、終戦で暴落した。手元に残ったのはわずか30円であった。

西條さんはその30円で辞書を買った。そこから多くの詩や歌詞が生まれたことを思えば、何が幸いするかわからないのが世の常である。