日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

恐るべし昭和のパワーが炸裂

 

本年もよろしくお願い申し上げます。いつも読んでいただき、ありがとうございます。そして、皆様のすばらしい記事を多く読ませていただけることに感謝しております。

正月はマラソンランナーの給水ポイントに似ているらしい。暮らしの山坂で雨に降られたり、ときに転倒もして、へとへとでたどり着く。水分補給で生き返り、また走り始める。

ひたむきに、ひたすら疾走してきた昭和の日本も、平成に入って疲れがにじみ始め、失敗や弱点の“ひた隠し”も珍しくなくなった。平成で登場したネットにまつわる人間関係の悩みもストレスにつながる。

<世の中に人の来るこそうるさけれ とはいうもののお前ではなし>。<世の中に人の来るこそうれしけれ とはいうもののお前ではなし>。作家の内田百閒さんが、玄関先に並べて貼ったという2つの狂歌である。

 

 

この30年で日本人は何に悩んできたのか。SNSにより、人と人はいつでもどこでもつながっている状態になった。

コミュニケーションが密になった分、“きずな依存”や“つながり依存”ともいうべき状態になっている。昭和になかった新たな気苦労が生まれた。

おしゃれなレストランやブランド品、手作り料理。キラキラしたものであふれて、かわいい自撮り写真。SNSに投稿された友人たちの写真を見ては、自分と比較して落ち込む。

リア充への嫉妬”という言葉もふつうに使われている。スマホは、人間関係そのものを変えてしまうかもしれない

 

 

昨晩、平成最後の紅白歌合戦をテレビで観て大笑いをした。サザンオールスターズが最後に、出演者のそろったステージを大いに盛り上げた。それも平成というより昭和の感覚で・・・である。

ボーカルの桑田佳祐さんは、大トリ2曲目の『勝手にシンドバッド』を走り回りながら大熱唱。そこへ北島三郎さん、松任谷由実さんという大物が臆することなく参加。

桑田さんと松任谷さんは激しく踊り、松任谷さんから頬にキスを受けた。遊び心の勢いが増した桑田さんは、それに応じるように腰をくねらせるダンスを披露。

桑田さん、ユーミン、北島さんの3人のお歳を合わせると208歳である。

またステージの脇で、あのYOSHIKI(ヨシキ)さんとhyde(ハイド)さんが、並んで立って冷静にながめていた場面もおもしろかった。

元号の名称は4月1日に前倒しして公表されることになるとか。どういう名前になるのかはわからぬが、平成最後の大晦日で“昭和の熱い盛り上がり”を見られて、得した気分なのである。

 

皆様よいお年をお迎え下さい

 

地球誕生から現在までの46億年の歴史を、1年365日に換算した地球カレンダーによれば、(ホモ・エレクトスの一部がアフリカで進化した)現生人類(新人=ホモ・サピエンス)の誕生は12月31日の午後11時37分らしい。

人類が初めて宇宙から地球の全体を見たのは1960年代後半のアポロ計画の時。「地球は独りぼっち」で「国境はない」との感想が漏れた。計画は70年代に終わり40年超、全体像を見た人はいない。

人間は太陽系の惑星のごく表層に生きる小さな小さな存在だという。直径10センチのりんごを地球にたとえ、地球上で人が到達できる範囲を、最も高い所でエベレストと考え0~9千メートルとする。りんごの皮の厚さにしてみるとわずか0.07ミリメートル。薄すぎて、皮をむくどころではない。

 

 

<上からは明治だなどといふけれど「治まるめい(明)」と下からはよむ>。明治改元を皮肉った落首である。今年は明治維新から150年。

「少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く」。坂本龍馬は、西郷隆盛の器量を鳴り物にたとえて評した。「惜しむらくはこれをつく撞木(しゅもく)が小さかった」。龍馬はこう続けた。

幕末の煮え立つ時勢の中で、偉材どうしが天下国家のあり方を論じ合う。西郷という巨大な鐘を、龍馬が緩急織り交ぜながら撞く絵柄なのか。

いつの世も、強く、感情に走らず・・・と、鐘のたたき方が問われる年の移り変わりだ。

ゴーンと鳴り響く鐘の音で、「今年も終わった」と感じる人も少なくない。しかし、大晦日の伝統的な行事の一つ「除夜の鐘」も、近所からの苦情で自粛する寺もあるという。

 

 

「除夜の鐘」は、大晦日から元旦にかけての夜間におこなうため、閑静な住宅街では、住民の中で不快に感じる人もいるようだ。ある寺院では、「除夕(じょせき)の鐘」を昼間につくことにしたそうだ。

「生活改善 お互に年賀状はよしませう」。政府がポスターで自粛を呼びかけたのは、物資不足の太平洋戦争中だった。当たり前のように毎年届く年賀状にも、暗い歴史があったという。

スマートフォンの時代で、年々減少している年賀状。それでも今度の正月用には24億21万枚超が用意された。その一方、運送や郵便は人手不足が過去にないほどの深刻さだ。

少し前のTVニュースでは、宅配のおせちが元日に間に合わないところもある、と報じていた。現場の方々の負担を案じずにはいられない。

本年もたくさんお世話になりました。よいお年をお迎え下さい。<(_ _)>"ハハーッ

 

元旦にお店は開くか閉まるか

 

元日はお店が休み・・というのは、昭和まで続いた商慣習らしい。<家業をなし銭儲けするものは凧(たこ)商う店の外(ほか)はなし。町家両側とも板戸を閉じて、往来すべて一物もなし>。江戸の元日の光景はこのようにあった。(『絵本江戸風俗往来』より)。扇や凧は例外だが、商売をしないしきたりだったらしい。

たしかに、子どもの頃の昭和の元日は車が走らず、人の姿も外に見えなかった。その風景が新鮮で、新しい年になったことを肌で感じた。

それを次第に変えていったのは、年中無休のコンビニエンスストアの普及と、20年ほど前から大手スーパーが始めた元日営業のようだ。

 

 

深刻化する人手不足を背景に、年中無休を当然のこととしてきた外食産業なども、元日休業が広がっているという。コンビニでも、元日に休むところが現れているようだ。

元日休業の“復活"も、ここ数年での傾向なのらしい。中小スーパーなどが元日営業を休むのは、経費の割に売り上げが伸びなかったため、だといわれる。

みそかの掛け取り騒動から、一転静かな元日。その翌日の初売りや初荷のにぎわいへ・・・と、メリハリある正月で新たな年の元気を盛り上げたのが江戸の人たちだった。意識をせずとも、そのDNAは今も受け継がれているはずだ。

江戸時代の流行語に“茶づる”というのがあるらしい。お茶漬けを食べることなのだという。私は知らなかったが、今は“まくる”などの言葉もあるとか。ハンバーガー店に立ち寄ることなのだという。妙に江戸の時代が身近に感じられるようになってくる。

 

 

「る」で終わる新語といえば、一昨年の“神ってる”もあれば、昨年に女子中高生を中心に流行した“ストーリーってる”もあるという。インスタグラムに「ストーリー」と呼ばれる機能があり、それを動詞化したらしい。

これを使い24時間過ぎると、アップした画像が自動消去するという。まるで「消える日記」のようである。毎日の物語がすぐに消えて、すぐにまた始まる。引きずるものがなくて、そこがいいのか。実に刹那的だ。

もう「数え日」の季節の後半なのだろうか。数え日とは、年の暮れに残りの日数が少なくなること。♪ もういくつ寝るとお正月・・・。子どもたちはそんな心境かもしれない。おとなといえば、あれも片づけねば、これもしなくてはと、追い立てられるように日を数えている方もおられよう。

数え日にはもうひとつ、「書き入れ日」(多くの利益が最も期待される日)の意味もあるという。元旦も店頭の仕事で頑張られる方には、ぜひともエールを送りたい。

 

年末ムードはクライマックス

 

クリスマスを過ぎると、気分は一気に年末ムードへと切り替わる。こんな川柳もあるらしい。<元日や今年もあるぞ大晦日>。

江戸の昔は、大みそかが借金取りとの攻防の日だったという。日用品までもが掛け売りだったので、掛け取りは大みそかに家へ押しかける。

バブル期のような喧噪はなくなったものの、この季節には街が華やぐ。ただ、気のせいか子どもや若者よりもご年輩の方が多く占めているように感じられる。

そういえば今年の10月、沢田研二さんのコンサートドタキャンが話題になったが、あのジュリーも70歳になっていた。テレビで初めて見たときは19歳だったと思う。

予定されていたさいたまスーパーアリーナでのコンサートでは、9千人と聞いていたのが7千人だったということらしい。しかし、70歳で7千人も集まるのはすごいことである。

 

 

シンガー・ソングライター小田和正さんは本年5月に全国ツアーをスタート。全国21会場48公演40万人を動員で、70歳を超えた日本人アーティストとして最大規模のツアーになった。ちなみに、うちの奥さんは6回(3アリーナー)聴きに行っている。

2016年4月から10月まで行った全国ツアーから約2年。当時68歳~69歳の自身が作った「24会場48公演計約37万人動員」の記録更新である。小田さんは今回のツアー会期中に71回目の誕生日を迎えた。

ものすごい人出の話はこのへんで終わるが、かたやこの業界の人手不足は深刻らしい。コンビニである。日本人のアルバイトが見つからず、外国人で40%を占める地域もあるという。

 

 

スーパーではお客さんが自分で現金決済や商品スキャンを行う“セルフレジ”を導入する店舗が増えているようだ。コンビニも同様に、最新技術を活用した新たな取り組みで、新しいレジシステムの開発・導入を目指している。

これまで店内には最低2人のスタッフが必要だったのが、1人でも運用できるようになるらしい。また、各社では独自の電子マネーを導入するという。

ファミリーマートは2019年7月、全店でスマホ決済の「ファミペイ」を始める。スマホにて使った決済で、消費者の購買データを分析したり、商品開発や来店促進に生かす方向だ。

セブンイレブン・ジャパンも19年夏までに独自のスマホ決済を導入する予定とか。ネット系企業が競うキャッシュレス決済にコンビニ大手も本格参入する。

2019年度の政府予算案は7年連続で過去最大となり、初めて100兆円の大台を超える。税収は62兆円で、足りない分は新規の国債発行で賄われることだろう。

生き残りに必死な民間企業に対し、(内閣の顔ぶれを想像すると)お気楽に感じてならないのである。

 

ネットつながりで呑んだくれ

 

まだパソコンもネットも非力だった頃、多くのメーリングリスト(ML)が生まれ盛り上がった。そのMLの書き込みを18年楽しんだ。

ブログでいえば、MLは本文というよりもコメントに近いものだ。ブログ本文の行数は短いのに、コメントが長くつながって盛り上がる。そういうブログはとてもML的である。

メールソフトでやりとりする特定多数での“オープン・メール”で、ツッコミとボケ、チャチャなど、多くのメールが飛び交い、オフ会のときも大盛り上がり。メンバー同士の親密度も強くなりやすかった。

 

 

ネットはデジタルやバーチャルの世界、との意識が強かった時代であったが、お付き合いは超アナログでネットを通じた多くの人と、どんちゃん騒ぎした。

数多くのオフ会でさんざん飲み歩いた。

オフ会開始前からも準備のためのハシゴ酒が始まる。私たちの造語だったが、オフ会前に3軒飲み歩いていたら、マイナス3次会。

オフ会本番で3次会まで行ったとしたら、合計で6次会にも及んだ。

“インターネット創生期の産物”であるMLも今は、SNSやLINEの台頭でその役割を終えた感がある。

 

 

MLでは返信(レス)モードの短文が中心のため、短文に慣れ切って長文が書けないというトラウマにも陥った。少しでも長い文章を書くことに苦手意識を持ってしまう。

それは今でも引きずっている。『プロジェクトX』の語りのように、簡略化した言葉を淡々とするように心がけたり、長い作文に慣れるための“苦肉の方策”をあみ出したり。

たとえば、言葉や情報の断片を組み合わせてつなげるために、なくてはならないものはアイデアプロセッサ。

さて...クリスマスは細かい仕事がからんでゆっくり飲めなかったので、本日からがお楽しみモードになりそうである。

 

スマホとヒトの頭脳は神秘的

 

この時期に一年を振り返り、仕事や趣味で納得いく成果やいいことがあれば、このよき年の終わるのがもったいなく、寂しさもふとよぎる。“年惜しむ”とは、しみじみとした季語である。

そんな風情で年忘れの杯を傾けることができる人は幸せで、やり残しの憂いに浸りながら酔うのが、年の瀬の恒例になっている。

多くの人は、見えぬ明日への不安を抱いて生きているらしい。人生を切り開く精神力を持つ人も、霊感などに無関心を通すのはむずかしいとか。

「手相を易者に見てもらった」。作家・志賀直哉さんは娘さんから聞いて、きつく叱りつけたという。その種のことが大嫌いな性分なのだ。

自分の将来をそういうもので占おうとしてはならぬと、厳しく説教したあとで尋ねたという。「で、何と言われたんだ?」。

 

 

家庭に1台しかなかった電話を各自が1台ずつ持つようになって久しい。そこで何が起きたのか。<人は膨大な量のプライバシーを、抱え込むことになった>と。(エッセイスト・酒井順子さんの『黒いマナー』より)。

インターネット接続の車やキャッシュレス化で、なくてはならぬものがスマートフォンである。端末やデバイスという役割だけでなく、スマホは正真正銘のスーパーコンピューターになっているらしい。

機械学習により、写真に写っている人の顔を認識したり、関連性の高いタイムリーなアプリや位置を提案したりするなど、人物を認識して私たちの望むものを習得しつつある。

先日の新聞記事で、裸眼の視力が1.0未満の高校生の割合が67.09%で過去最悪とあった。小学生は34.10%と4年連続で過去最悪を更新している。

文部科学省は「近くを見るスマートフォンなどを使う時間が増えているため」と分析。これは、スマホの普及率の大きさを示す数字でもありそうだ。

 

 

この一年のラスト前までも将棋界の話題は豊富で、ものすごい頭脳の戦いが繰り広げられているようだ。

棋士の藤井 聡太さんは、通算100勝の最年少記録(16歳4か月)を、歴代最速・歴代最高勝率で更新。羽生 善治さんは、第31期竜王戦七番勝負で、挑戦者の広瀬章人八段を相手にフルセットの上3勝4敗で敗れ、1990年度の棋王獲得以来27年振りの無冠となった。

<兄たちは頭が悪いので東大に行ったが、私は頭が良いので棋士になった>。米長邦雄永世棋聖による伝説の語録らしい。

将棋の大山康晴十五世名人は、講演をした折に演壇から降りて、「お客さんは何百何十何人でしたね」と係の人に告げた、との逸話がある。そしてその数字は、主催者の記録とぴったり一致していた。

<客席は将棋盤と同じマス目だから、ひと目で分かりました>とのことである。棋士は計り知れなく神秘的な頭脳の持ち主なのだろう。

なにはともあれ平成最後の年末は深まるばかり。行く年ばかりではなく、去りゆく時代を惜しむ気分も満ちてきている。

 

テレビと会話はふしぎな気分

 

警察庁は数日前、2020年に実用化されるという“レベル3”(高速道路限定)の自動運転車の規定として、新設した道路交通法改正案を発表したらしい。

システムの交代要請があった際は、「直ちに適切に対処することができる態勢」という条件で、ドライバーが運転席を離れることは認めず飲酒運転も禁止だ。

それでも、ハンドル操作やブレーキなどの運転操作はシステムが行うため、脇見運転が許容される。また、運転中のスマートフォンなど携帯電話の通話やメール操作を認めるともいう。パソコン作業や映画観賞、読書、食事なども取り締まりの対象にしないとか。

長年、車の運転をしているが、走る車の運転席にいて脇見運転や読書が許されるということがふしぎでならない。遠い未来の話ではなく、あと数日で年が変わると翌年のこと。

自動運転車の技術はそこまで信頼できるものなのか。事故が起きたときの賠償責任はどうなるのか。

 

 

外国へ行く用事がないので知らなかったが、羽田空港の入国審査では自動化ゲートがあるとか。機械でのチェックですばやく手続きできるらしい。

その仕組みは、パスポートのICチップで保存している顔の画像とゲート内蔵のカメラが撮影した画像を照合し、本人かどうか判断するものだという。

まだガラケーの携帯電話の頃、顔認証でロックを解除する機能があった。前もっていくつかの表情で顔を登録しておくものであったが、ロックを外すときには認識率がとても悪かった。急ぎのときなど、携帯電話に向かって百面相をしなくてはならなかった。

今は、人の顔を見分ける技術はめざましく進歩しているらしいが。

そういえば以前、電車内でぐずり始めた赤ちゃんを、若い母親がスマホを赤ちゃんの顔の前に向けてあやしていた。赤ちゃんは画面を見るなりすぐに泣きやんだ。今の時代、機械の方が人より上手にこどもをあやすようだ。妙に感心したことを思い出す。

 

 

昨夏から利用しているアマゾンの“Fire TV Stick”はまったく飽きない。自室やリビングにあるテレビのHDMI端子に、スティックを挿すだけでかんたんに映画やビデオを、テレビの大画面と迫力音で楽しめる。

Amazonプライム・ビデオ、Netflix、You Tube、AbemaTV等の動画が好きなだけ観られて、配信音楽をテレビで聴くこともある。

そのスティックに今月から、AmazonのAIアシスタント「Alexa(アレクサ)」との連動が開始した。見たい動画を一言で再生したり、視聴中のドラマや映画の出演者について気になれば、話しかけて教えてもらったりしている。

また、テレビを観ながら、これからの予定や天気が気になれば、すぐに答えてくれて、テレビ画面に表示もしてくれる。かかっている楽曲名も話しかけるとわかる。

AIスピーカーのみならず、テレビとまで会話ができてしまうのである。理屈ではわかっていても、テレビの概念がコロッと変わる。

 

隆盛を極めたフィルムの写真

 

2018年に日本を訪れた外国人旅行者が、3000万人を初めて超えたらしい。ちなみに、前年は2869万人とのこと。初めて1000万人を超えたのが2013年。わずか5年間でほぼ3倍に増えた計算だ。

政府は、訪日客数を2020年に4000万人、2030年に6000万人へ引き上げる目標を掲げた。追い風は、やはり大型イベントなのだろう。2020年に東京五輪、2025年は大阪で国際博覧会(万博)が開かれる。

1970年に日本で最初に開催された大阪万博(EXPO'70)は、日本の高度経済成長をシンボライズする一大イベントであった。そして、このイベントをきっかけに需要が増したのはカラーのフィルム写真。

1990年代後半、ロールフィルムの出荷本数は4億本を超え、1997年~1998年の1年間の統計が、日本国内で最多の約4億8283万本を出荷した。

多くの顧客が撮り終えたフィルムを、カラー写真ラボが集める量は凄かった。

 

 

今、デジタルカメラでロケーションのいい所やイベント等で撮影すると、お気楽に300~400枚くらい撮ってしまう。

フィルム写真全盛時の“フィルム代”や“現像&焼き付け”の料金に換算してみる。仮に360枚で写真専門店へ注文する場合、2万3千6百円くらい(フィルム代金込み)になった。デジタルカメラなら、プリント保存をしなければ、それらがすべて無料だ。

フィルム写真の関連業者は、高額な料金をカメラユーザーから得て潤ってきた業界ともいえる。それも、デジタルカメラの普及で100年の歴史に幕を閉じることになる。

1995年に、民生用デジタルカメラ“CASIO QV-10”が登場して話題になった。デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品である。とはいえ、“QV-10”の画素数は25万画素。プリントに耐えられるシロモノではなく、Lサイズも満足に焼けないだろうと楽観視した。

素数を大きくしても、出たばかりのWindows95機のスペックは脆弱すぎた。DOSの時代、名作ソフトといわれたVZエディタの容量は、今の写真1枚以下である。当時のパソコンで扱うには大容量すぎる。

やがてそれも、パソコンのスペックの進歩、メモリや周辺機器の低価格化で補えてしまうことになるのであったが・・・。

 

 

その頃、ネット仲間ともオフ会でさんざん飲み歩いた。そこで危機感を感じた。

ある夜のオフ会後、東京駅で大阪の仲間をお見送り。もう1軒カラオケを楽しんで神奈川の自宅へ戻った。

家でパソコンを開いたら、大阪の仲間がオフ会の写真をホームページにアップしていた。フィルム写真ではこういう芸当がまずできない。

デジタルへの移行時期は、デジタル体験があるのとないのでは温度差が大きかった。フィルム写真の業界内ではデジタルを理解できない者がほとんどで、(インターネットで)瞬時に写真のやりとりをしている我々の話が通じない。

フィルム販売が頂点だった1998年に、20年お世話になったその業界を去った。

全盛期の10年後である2008年には、隆盛を極めたフィルムも10分の1近くの約5583万本にまで落ち込んだ。

 

まったりと過ごすクリスマス

 

今、ジョン・レノンの『ハッピークリスマス』を聴いている。<♪ クリスマスがきたね・・・>。この曲は1971年12月にアメリカで発表とのこと。<♪ 戦争は終わる、君がそれを望むならば・・・>。歌は続き、子どもたちのコーラスも。

歌い継がれて47年。当時、ベトナム戦争は戦火を広げ泥沼化していた。無益な戦争を終わらせよう。ジョンはメッセージを込めた。しかし、今も世界からきな臭さは消えていない。

“ホントー”、“ウッソー”を連呼したのはバブル期の女子高生たちだった。大人たちのひんしゅくを買ったらしいが。今は“ホント?”という判断への問いは、とても貴重に思える。最近の若者は“マジっすか?”と、発言者の本気度に対する疑問に変質しているようだ。

 

 

人間の欲求には優先順位があるという。アメリカの心理学者・マズローは“欲求段階説”を唱えた。

人間がまず追求するのは、食事や睡眠などの生理的欲求。次は安全欲求で、社会に居場所を得たいという欲求へ続く。そして、皆から認められたいという承認欲求へと向かう。

暮らしが安泰でも人間は満たされないものらしい。閉塞感の漂う時代だからこそ、美点を互いに認め合う余裕があればいい。

最近の記事を見て、思わず“ホントー”、“ウッソー”と口走りたくなった。“神武”だか“いざなぎ”か知らないが、今の景気回復が戦後2番目の長さに及ぶらしい。それも、来年1月まで続けば最長になるというのだからおどろく。

実感に欠けるのも当然で、現在の局面が始まった2012年度から昨年度の平均成長率は1.2%。1965~70年度の“いざなぎ”の時は10.1%もあったという。

 

 

クリスマスをひとりで過ごすことを“クリぼっち”というらしい。昨年のこの時期、20代、30代の一人暮らしの社会人男女300人にインターネットで調査したところ、65%が1人で過ごす予定であり、前年の同調査結果52.2%を大きく上回ったそうな。

「“クリぼっち”をどう思うか」の問いには69.5%が「寂しいと思わない」と回答した。「ひとり、まったり家で過ごす」が38.5%で、理想のクリスマスの過ごし方の1位である。「彼氏、彼女、意中の相手と家でまったり過ごす」が29.5%で2位だった。男女で恋人のいる人は31.2%だとか。

クリスマスは恋人と過ごすものだというバブル期のような風潮が、もはや存在しなくなっているのかもしれない。どういう形でも、クリスマスの中でまったりと浸れることに感謝したい。

 

逆手に取ることもよさそうだ


“御用納(おさめ)”は25日。その祝いで、与力同心の知り合いも客として集まり、“歳忘れ”と称して延々と・・・。大みそかまで引き続き飲み明かす。江戸の町奉行所の年末年始だという。社会学者・園田英弘さんの著書『忘年会』によれば、天保年間の記録にあるそうな。

年明けは(正月)17日まで、諸藩の留守居役などの年礼客と、芸者やたいこ持ちらも入り乱れ、気ままに飲み過ごす。

時は過ぎ、クルマは人類最速のランナーより速く、円周率の計算をさせれば、コンピューターが人間をはるかに超える能力を発揮。それでも、機械に負けたと悔しがる人はいない。

世の中は“情報"があふれ、知りたいことや気になることがあれば、誰もがスマホ片手にネットで調べる。そしてかんたんに答えを得てしまうのだ。

とはいえ、人間の中身は変わらない。江戸時代の年中行事は引き継がれ、忘年会がさかんに行われるシーズンである。

 

 

古代ギリシャ古代エジプトの時代にも図書館があり、ひとりの人間が一生かかっても読みきれないほどの情報が蓄積されていた。何十万冊という本から、目的に関連する項目を調べるのはきわめて困難だったはず。アナログ情報が増えれば増えるほど、引き出すのに多大な労力を強いられた。

検索で一定の情報を得られる便利な現代社会において、この“検索"という機能は、人類史上かつてない、きわめて重要なテクノロジーのひとつなのだという。

デジタル化されたデータベースへのアクセスが可能になることで、加速度的な情報量の増加でも、瞬時に欲しい情報を引き出すことができるようになった。アナログとの大きな違いは、情報量は増え続けても、調べる手間や労力がほとんど変わらない。

“情報化社会"の流れで今は“検索社会"になっている。おいしそうなお店、初めて訪れる場所、食事の献立などと、あらゆる情報を検索から得ている。

 

 

Google等の検索エンジンに引っかからない情報も、無数に存在するという。ネットとの差別化を図る方向で、これからのテレビは「Googleの逆を狙う」ようなことを、テレビディレクター、ノンフィクション作家の佐々木健一さんはコラムに書いておられた。

テレビが持つ可能性として<一方通行の“受動メディア"であるテレビの強みは、視聴者に“偶然の出会い"を提供できる点>なのだと。

観るつもりじゃなかったのに、たまたま見た番組が面白かったとか、自分の趣味や趣向とかけ離れた番組との出会いがなにかのきっかけになることもある。自分で予想もしなかった“新たな自分"が掘り起こされ、世界も広がる。

悲しい結末のドラマが苦手な私も、昨夜に最終話の『大恋愛?僕を忘れる君と』の上質な結末に泣けた。まさに“偶然の出会い"を演出できるのが、テレビの醍醐味なのだろう。

配信視聴が増えると、自分の好きな作品に偏ってしまう。偶然の出会いに期待を持てれば、テレビというメディアも捨てたものではないはず。