日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

封建制度で生まれる名ドラマ

 

“封建的”、“封建制度”などの言葉は今もよく使われる。かつて映画界では封建的な五社協定というものがあった。戦後、映画興行から映画制作を考えていた日活が、映画他社の監督や俳優などを引き抜こうとの動き。それを封じようと、松竹、東宝大映東映、新東宝の大手映画会社5社は1953年に「五社協定」を申し合わせた。

協定内容は<スターを貸さない、借りない、引き抜かない>という三ない主義だ。5年後、日活も協定に参加し「六社協定」となるが、新東宝の経営破綻で1961年には五社協定の呼称に戻る。

1964年、三船敏郎さんと石原裕次郎さんの2人が会見し、三船プロ石原プロの共作で『黒部の太陽』を映画化すると発表。しかし、実現までにはかなりの時間を要した。日活の社長・堀久作さんは五社協定を盾に猛反対。頓挫寸前にまで追いこまれた。その作品も紆余曲折を経て、1968年3月に公開され大ヒット。

 

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テレビなどで歌番組も多く歌謡曲といわれた時代、各レコード会社は専属の作曲家、作詞家、歌手がいた。専属作家は他社の歌手へ楽曲提供ができず、歌手も社内作家の曲しか歌えない。

シンガー・ソングライターの若者たちの台頭で流れは変わった。自ら歌いながら、アイドル歌手へ曲の提供。ヒット曲が量産され、歌謡曲と呼ばれるジャンルは衰退した。

行きたいチームとの相思相愛を許されないプロ野球のドラフトも、封建制度に感じてならない。

ドラフト以前のプロ野球自由契約である。大スター・長嶋茂雄選手は、東京六大学リーグ戦通算96試合に出場し、打率.286、8本塁打、39打点、22盗塁の活躍。守備や俊足も関係者から高い評価を得た。

プロ入りが確実視され、さまざまな球団が長嶋選手と接触を図った。本命は南海ホークスで契約を交わす寸前だった。それが一転、巨人への入団(1958年)に決まる。

 

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長嶋さんと同期入団には難波昭二郎選手(関西大)がいた。大阪府出身で関西の大学球界を代表する三塁手。<東の長島、西の難波>と称された。しかし、長嶋さんの前では活躍の場に恵まれず、1962年に西鉄へ移った。

第1回ドラフト会議は1965年。堀内投手(甲府商)は巨人に入団。その翌年は江夏豊投手(大阪学院高)が、巨人、阪神東映、阪急の4球団から1位指名された。

大豊作といわれたのは第4回ドラフト(1968年)だ。田淵さん・山本(浩)さん・富田さんの法大トリオ、星野投手(明大)、東尾投手(箕島)など大物が揃った。

指名順が先の阪神は巨人入り希望の田淵さんを1位指名。田淵さんが他球団に指名されたら、巨人は星野さんを指名する予定。しかし、<即戦力より素質のある高校生>との川上監督の希望で島野投手(武相)を指名。

巨人からの指名を確信していた星野さんは吠えた。<ホシとシマを間違えたんじゃないのか!!>。ドラフトではその後も、封建制度の産物なればこその、語り継がれるドラマが山ほどあるようだ。

 

心理に行動を合わせてみれば

 

“人間は合理的ではない”という前提に立ち、心理学を取り入れて考察する。経済理論とくれば、行動経済学らしい。

ある食堂の昼メニューは、A定食800円、B定食1000円だとする。店では利益の上がるB定食を多く売りたいが、思い通りにいかない。それでも、メニューにC定食1200円を加えてみれば、B定食が売れ出す。1番高いものは敬遠され、2番目が選ばれるのだ。

指導者が簡潔に断言してできるだけ同じ言葉で繰り返し説く。そうすれば、その意見がさらに威厳を得て群衆の中にいや応なく感染していくという。(フランスの心理学者ル・ボンの『群衆心理』より)。

 

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<大勢の侍が年寄りを襲うなんて>。江戸・本所の吉良邸へ赤穂藩の旧藩士47人が討ち入ってしばらくは、吉良上野介(こうずけのすけ)への同情の声の方が多かった。

その事件を題材とした浄瑠璃や歌舞伎が上演されると、今度は赤穂浪士がたちまちヒーローになる。庶民の突然の心変わりに、吉良家の縁者たちの戸惑いはさぞかし大きかったことだろう。

不惑とは物の考え方などに迷いのないことであり、「論語」為政の<四十にして惑わず>から40歳のことでもあるらしい。その年齢をはるかに越えた私は、今も惑いっぱなしである。

<「感」の中に「惑」に似た部分があります>と吉野弘さんは詩に書いた。ぱっと見、“不惑”と“不感”は誤読しやすい。ちなみに、不感とはものを感じ取ることができないさまらしいが、たしかに私は鈍感でもある。

 

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1930年代、アメリカはラジオで音楽をすべて流すようになった。すると、音楽が無料になったとみんなが喜び、レコード売上が激減した。

1950年代にレコード会社は、ラジオ向けに短めの曲をシングルカットして、ラジオで流してもらうようにした。するとレコード売上は好調になった。試行錯誤は20年もあったが、音楽の「無料プロモーション」はこのときに定着したという。

現在は、CDの売り上げが減少する一方、定額で好きな曲を何万曲も聴ける音楽配信サービスが普及している。安価で聴きやすい状況ができたのに、音楽を聴かなくなっている風潮だとか。

有り難みが損なわれると、そこから離れていくという心理があるようだ。カセットテープが注目を浴びる背景がそこにあるといわれる。曲をスキップできないカセットテープでは、A面の1曲目からB面の最後まで音楽と向き合い、楽しさを再認識できるからなのだという。

レコードを聴くデジタル世代にしても、曲が流れるまでの面倒な作業があるからこそ、あの柔らかなアナログ音に癒やされるのだろうか。

 

芸ある人の真髄を感じた瞬間

 

<30代、40代と、若いミュージシャンとともに野外コンサートを続けてきました。でも、自分のアーティストとしての力量はだんだん風化していく>。シンガー・ソングライター南こうせつさんが以前、新聞のエッセイに書いていた。

<つまり人気がなくなってくる。我々の場合、如実にチケットの売れ行きでわかり、2000人の会場で売れるチケットが1500人になり、1000人になる>のだと。

ファンであるフォーク少年、少女たちは家庭を持ち、仕事も忙しくなりコンサートに行く時間も余裕もない。<こんなことで、ぼくは負けない。いいアレンジで、いい選曲で、来年は会場をいっぱいにしてやる>とチャレンジする。

ところが翌年もまた観客が減っている。これはステージに立った人でないとわからない苦しみなのだという。

 

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母に捧げるバラード』のヒットから2年くらいのとき、海援隊のコンサート会場の前を通りかかり、懐かしさで当日券を購入。中に入ってみるとホール内はガラガラだった。開演間近になったが、約千人収容の会場はひっそりしていた。

幕が上がり、同時に演奏が始まるはずが、いきなり武田鉄矢さんのトークであった。

<皆さん、今日はものすごく空いております。だから、どんどん前に詰めて下さい。遠慮なさらずに・・・>。移動した私の席は、中央の前から2、3列目であった。

数日前、沢田研二さんが開演間近のライブをドタキャンしたと騒がれた。沢田さんは会見で<僕自身にさいたまスーパーアリーナでライブをやる実力がなかった>と詫びた。

9千人と聞いていた観客数が、実際には7千人しかいなかったことが原因らしい。<客席がスカスカの状態でやるのは酷。僕にも意地がある>と。

さいたまスーパ―アリーナは日本武道館や横浜アリーナの収容人数をかなり上回る。7千人といえばすごい数なのに、ご本人もファンの方たちもやりきれない気持ちだったはず。

 

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一昨日、梅沢富美男さんと研ナオコさんの舞台を観た。富美男さんは大衆演劇「梅沢劇団」第3代座長で、初舞台が1歳7ヶ月だという。

1975年以降に前座長だった兄の勧めで女形に転身。独学で学んだ女形の美しさが大評判となり、「下町の玉三郎」と呼ばれ一座のスターになった。

2000年代以降には、バラエティー番組やドラマなどの出演が増えたが、自分の本業は大衆演劇というスタンスをもち続け、現在でも劇団の仕事を優先する。

女形の舞踊バラエティーショーは見事だった。絢爛豪華な舞台演出と美しい衣装、そしてすばらしい踊りを堪能させてもらった。

テレビの人気バラエティ『プレバト!!』で俳人・夏井いつき先生に毒舌を吐いたりする人と同じ人物にはとうてい思えない。

今月の初めに観たコロッケさんと、梅沢さん&ナオコさんは2千人前後の会場であったが、どちらも昼と夜の部で超満員。観客目線でも、満員の中で笑い転げたり、拍手をするのはとても気分がいい。

 

 

今週のお題「好きな街」

 

秋も日暮れて思いは津々浦々

 

ある日本人がアメリカの駅の窓口で、ニューヨーク行きの切符を買おうとした。「to New York」と言ったら2枚の切符が出てきた。駅員には“two”に聞こえたらしい。かなり昔からある“英語ネタ小話”だ。

言い直してtoを「for」にしてみると、切符は4枚になった。“four”に聞こえたようだ。その日本人はあせって「えーと、えーと」と唸れば、ご想像どおりの8枚に・・・。

英語だけでなく、日本語もなにかとむずかしい。明治初期、「東京」の呼び方やかな書きは“とうけい”、“とうきやう”などとバラバラだったらしい。日本語を作った男と称された言語学者上田万年(かずとし)さんは“とーきょー”がよいと説いたのだ。

上田さんの学生時代には、日本語の運命が揺れに揺れた。<漢字を全廃してローマ字式で>とか、<かな50字のみで書く国>にしようなどと、政治家や学者が真顔で論じ合った。

 

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上田さんはまた、書き言葉を話し言葉に近づけたいと思い、“日本中で同じ書き方になること”へと情熱を注いだ。新しいかな遣いは学校で採用されたが、森鴎外さんを旗頭に立てた復古派が、元に戻してしまう。そして、かな遣いの現代化が実現したのは、上田さんの死後である1946年のことであった。

森鴎外さんの文語体の作品は格調が高い。しかし、現代人には夏目漱石さんを始めとする言文一致の作品がたしかに読みやすい。

夏目漱石さんはロンドン滞在中、菊の展覧会に出かけた。故郷の景色が懐かしかったのか、<白菊と 黄菊と咲いて 日本かな>という俳句も詠んでいる。

この句で白が先にくるのは五七五の関係であり、序列をつけたわけではないだろう。同じく菊を賞美する中国では、黄色の菊が特別に尊ばれるようだ。中日辞典で「黄花」の第一の意味は菊になっている。

 

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この秋も雨が多い。晩秋の気温らしく肌寒さを感じることもある。梅雨にも似た秋の長雨はどう呼ぶのだろうか。調べてみると秋霖(しゅうりん)や秋黴雨(ついり)などがある。書くのも読むのもむずかしい文字だ。

古いデータで恐縮だが、「重複」をどう読むか? とのアンケートが、2003年度の「国語に関する世論調査」(文化庁)にて行われている。

結果は、本来の読みである“ちょうふく”が20%だったのに対し、“じゅうふく”と読む人は76.1%だった。

中国語辞典では、「体重」「加重」など、“重さ”を意味する語は、ジュウにあたるzhongであり、「重奏」「重婚」といった“重なる・重ねる”の場合は、チョウにあたるchongと区別されるようだ。

旧暦の9月9日は重陽節句で、こちらも“ちょう”と読む「重」のひとつになる。重陽の日には、中国・漢の時代に菊酒を飲む習俗が生まれ、日本では平安時代に菊の節句として定着した。

 

じわり増える人工知能の出番

 

<人間の業の肯定を前提とする一人(いちにん)芸>。立川談志さんは落語のことをこう言い表した。誰にもあるやるせなさや弱さを笑いでくるむから、ほのぼのとする温かみがどこかにある。

八代目・桂文楽さんには小言の流儀があったという。小言の種をためておき、一番小さなことで、短く、大きく叱る。その“短く”には味がある。

叱責とは「いかに言わないか」の技術でもあるようだ。逃げ場のない所に追い込むことはしない。

不満や将来への不安を抱える社員を、AI(人工知能)が見つけ始めている。メールの文面や出勤時刻の微妙な変化。そして、社員の笑顔の細部の様子などが判断材料になる。辞めそうな社員を把握し相談に乗る仕事として、AIを活用する企業もあるようだ。

 

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<できれば図書館で文庫の貸し出しをやめてほしい>。昨秋、全国図書館大会に出席した文芸春秋の社長が呼びかけた。文庫本は自分で買ってもらえないか、という思いなのだろう。

図書館でも、持ち運びやすい文庫は利用者に人気があるという。小さな本だからこそ大きな存在感を持っている、というところがおもしろい。

若者の“新聞離れ”の背景といえば、インターネットの普及が挙げられる。しかし、スマートフォンとにらめっこをしているのには、別の理由もあるようだ。

電車の中で読むのはオッサン臭いため、新聞を持ち歩くのがかっこ悪いらしい。逆に、新聞を熟読している若い女性を見かけると思わず見とれてしまうのだが。

 

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さて、AIの話に戻そう。とうとう・・・というか、ついにJR東日本は、赤羽駅(東京都北区)のホームに無人店舗を出したという。AIを活用した店員のいない物販店は、都内の駅では初めての試みらしい。まずは、2か月程度の実験営業をするとのこと。

品ぞろえは飲み物やパンなど約140品。お客さんが店内で手にした商品を、天井や棚に設置したカメラで自動認識をする。品物を棚に戻す動きもAIで認識できるようになっているという。

お客さんが決済ゾーンへ進めば、ディスプレーに商品名や金額を表示するのだ。支払いはお客さんが端末で「Suica(スイカ)」などの交通系電子マネーをかざして行う。

そして、代金の支払いが完了すると出口が開くしくみになっているようだ。

 

非効率の中に潜むものがある

 

懐かしいテレビドラマに『とんま天狗』がある。あの“鞍馬天狗”を下敷きにしたコメディ時代劇だ。大村崑さん扮する主人公は名前を“尾呂内楠公”といい<姓はオロナイン、名は軟膏>が決めぜりふとなった。

番組スポンサーの主力商品名を、そのまま主人公の役名にしてしまう奇抜な発想もすごいが、昭和の子どもだった私はその商品を見るたび、今もあのセリフを頭の中で連呼している。

1960年、米大統領選のテレビ討論は語り草であった。議論の中身とは関係なく勝敗が決したからだ。ケネディニクソンの一騎打ち。濃紺スーツに身を包んだケネディは、腰掛けるとすぐさまダンディーに足を組んだ。

かたやニクソンはくすんだ灰色のスーツで、ひざを開き気味に座った。モノクロ放送の時代だ。ニクソンは白くぼやけ、足の姿勢も相まって、さえない人物に映った。本当はどちらがいいことを言ったのか、ほとんどの人が憶えていなかった。

 

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<テレビは脚本、映画は監督、演劇は役者でよしあしが決まる>。脚本・演出家の成井豊さんは著書に記した。テレビは資金も時間も限られ、最初の脚本が出来栄えを左右する。映画なら監督が絶対の権限を持ち、役者は言いなりに動くしかない。演劇の場合、もし監督や脚本がダメでも役者に力と華があれば、観客全員を魅了してしまう。

演劇だけに限らず、音楽の演奏や踊りでも(生身の人間が)本気で表現したり訴えたりする姿には、人の足を止めさせる力がある。つまり、生の舞台にはそのような魔法があるのだ。

作家・村上春樹さんは、自伝的エッセイ『職業としての小説家』に書いたという。<小説を書く仕事は、実に効率が悪い>と。そして、非効率な中にこそ真実・真理が潜んでいる。効率の良いもの、悪いもののどちらが欠けても、世界はいびつになる、とも語った。

 

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飽きっぽいといわれる人がいる。さまざまなものに興味を抱くがすぐに飽き、三日坊主で終わることもある。

飽きっぽい人は常に何かを欲求している状態にあるのだ。欲求が満たされているときはおとなしいが、すぐに新しい欲求を求めてしまう。空きっ腹で欲求が満たされていない状態だと貪欲に行動するが、満腹になれば欲求が中断される。それでも、またお腹がすくので欲求が出てくる。そのことの繰り返しである。

ものは考えよう。飽きっぽい人は好奇心がとても強い。この欲求が何度も出てしまうことこそが、飽きっぽい人の最大のメリットなのだろう。好奇心を抱くとじっとしていられず、頭で考えるより先に行動へ移っているからだ。

そのためにはパワーも気力も必要で、誰もが真似のできることではない。飽きっぽい人は自分が興味を抱いたものに、とことん集中してとりかかる強い精神力がある。そして自覚症状もある。意識することで、飽き性を克服しやすい性格でもあるのだ。

ものぐさな私からは、あの好奇心とパワーがうらやましくてならない。

 

映画に対する言葉や想い入れ

 

<映画は芝居ではない。ドキュメンタリーである>と語ったのは高倉健さん。「演じる」と「生きる」のちがいについて語ったのはアラン・ドロンさんである。<修行を積んだコメディアンは役を演じる。経験なしからの俳優は役に生きる>。

ビートたけし(北野武)さんは、黒澤明監督の映画について“小説のような作品”と言っていた。映像では小説のように気が付かない場面がいくらでもあるが、細かい演出の積み重ねで、小説を書いているような映画にしてしまうのが黒澤監督なのだと。

北野映画には独特のテンポがある。過程を省略した演出が特徴で、いきなり車が画面に入ったらもうパーキングエリアにいる。その間は全部無視して思い切りカットする。たとえ、一週間かけた映像でも・・だ。

 

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たけしさんは『アナログ』という恋愛小説を書いた。アナログ時代の情緒とデジタル社会で失ったものを思うと、楽しみ時間を削られているような気がするという。

小説と映画の違いには、言葉と想像力の世界観がある。映画と小説の間にあるのが脚本だ。それはカメラで撮るための準備稿ともいえる。

小説は言葉だけで映像を頭に描かせるが、想像力を使って映像を見せる作業というのは、映画のカメラで10秒のことを小説に書いたら2、3ページかかる。たった5、6秒で終わるシーンを永遠とやっている場合もある。そしてその文体がきれいかきれいではないか。言葉使いがおかしいとか、評論家に怒られる。

時間とお金をかけた映画は捨てていいときでも撮っておく。そのまま並べていくとテンポが悪い場合はスパッと切る。貧乏なやつは映画が撮れないよ、と たけしさん。大金をかけたやつをみんな捨てるのだから。切って大失敗もあるが・・・。

 

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小説ではほんの数行の描写の部分を、見事なクライマックスに昇華させた映画もある。『砂の器』という名作である。

作品の最高潮となる回想シーンでは、少年が父と長距離を放浪していたとき、施しを受けられず自炊しながら生活する様子や子どものいじめにあい小学校を恨めしそうに見下ろす姿。そして命がけで父を助け、少年が怪我を負う場面などを淡々と描写している。

そこへ劇的に流れる音楽が、『砂の器』のテーマ曲である(ピアノと管弦楽のための)組曲『宿命』なのである。その根底にあるのは「悲しみ」か。

黒澤監督が演出した映画『羅生門』(1950年)にて橋本忍さんは脚本家としてデビューした。黒澤組のシナリオ集団の一人として、『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆した。

「橋本プロダクション」を設立後、1974年に第1作として山田洋次さんとの共同脚本で『砂の器』を製作。興行的に大成功で映画賞を総なめにした。原作者の松本清張さんも「小説では絶対に表現できない」と、この構成を高く評価したという。

 

好きこそ言い逃れの上手なれ

 

<また寝坊 ついに親族 死に絶える>。私の大好きな“サラリーマン川柳”にあった。寝過ごすたびに、親類の不幸があったことにして会社を休んでいたのだろう。

笑い話のようだが11年前、そのように気楽な稼業が健在だったらしい。有給の服喪休暇(忌引)を不正に取得したことで、京都市が職員42人を処分・・・とあった。

そういえば、映画やテレビでおなじみの『釣りバカ日誌』の主人公・ハマちゃんも、親族が死に絶えるくらいに会社を休み、好きで好きでたまらない釣りへ出かけていた。

 

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詩人・川崎洋さんは九州に旅したとき、居酒屋である青年と隣り合わせた。焼いたカレイをおいしそうに食べている。それも、骨の標本にして飾れるくらいの見事な箸(はし)遣いであったそうな。

感心した川崎さんは、『カレイ』という詩を書いた。<きみ きれいに食べるね/と声を掛ければ/カレ こちらも見ずに/はいネコが月謝払って/魚の食べ方ば習いにきよります>と。

“釣りバカ”のハマちゃんも魚の食べ方が上手かったようだ。ある食堂でスーさんとハマちゃんが向かい合わせで昼食をとっていた。ハマちゃんはスーさんに言った。「魚はきれいに食べてあげないと(魚が)かわいそうだ。僕が食べてあげるよ」。

スーさんとハマちゃんの初めての出会いのシーンである。そういえば、ハマちゃんの妻のみち子さんとの出会いも、魚の食べ方にまつわるエピソードだったと記憶している。

 

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上司に日ごろ、<頑張れよ 無理をするなよ 休むなよ>と声音やさしくこき使われる。おじさんもおばさんも死なせずにきた人にとっては、すんなり嘘の通る職場は別世界。

<何故だろう 私がいないと うまくいく>という句もサラリーマン川柳の秀作集にはある。真面目だけでも、影が薄くなるかもしれぬ。

長く生きていればいろいろあるのが人生。それでも、宇宙のスケールからはホンの一瞬にも満たない時間かもしれない。

山あいでは満天の星が明るい。そしてその数の密度にもおどろく。星同士が衝突しないのかと心配にもなる。しかし、星と星の混雑度は<太平洋にスイカが3個程度>なのらしい。

宇宙は気が遠くなるほど広い。数多い星にもそれぞれの一生がある。<人生はあっという間だった>。そう言い残して逝った人は多いらしい。数々の患者を看取った医師が、なにかに書いていた。

 

コロッケの至芸から初音ミク

 

続く秋雨でコートを着たかと思うと、翌日は汗ばむ陽気で半袖に戻る。一昨日は、横浜の中華街で食事したあと、真夏の陽気である山下公園を散歩。ものすごい人出であった。

そして夕方にはコロッケさんのコンサートを楽しんだ。昼と夜の部とも超満員で大盛り上がり。オープニングの安室奈美恵さんからラストの北島三郎さんのネタまで、すべての観客が笑い転げていた。

芸能生活38周年のものまねタレント・コロッケさんは、300種類以上のレパートリーを持ち、独特なアレンジを加えたものまねが印象的だ。中でも斬新なのが“五木ロボット”なのである。迫力音での生パフォーマンスを観ることができて大感激である。

五木ひろしさんのものまねは以前からしていたが、ご本人に認めていただくまでに25年かかったという。なぜ認めてもらえたのかというと、ロボットダンスにしたことだった。

 

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五木さんのものまねからロボットダンスへと進化させることで、新しいエンターテインメントが確立された。そのことの評価で五木さんは認めてくれたのだ。

私だけであろうが、コロッケさんの“五木ロボット”を観るたびに、あるキャラクターを連想してしまう。歌声合成ソフト“ボーカロイド”の代表的存在で、世界的な人気を誇る「初音ミク」である。

その誕生以来、プロアマ問わず多くの作り手による創作の連鎖を生み、芸術や伝統芸能の世界にも進出している。初音ミクはあくまで楽器の一つであり、原点はコンピューター音楽だという。

開発したクリプトン・フューチャー・メディアは1995年創業で、効果音や楽器の音色など音の素材を音楽の作り手に提供している。2003年にヤマハが開発したボーカロイドで、人間の“歌声”も楽器のように鳴らすことが可能となった。

 

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2007年、初音ミクの発売当時に、ネット上で動画投稿が流行し始めていた。素材として使えるように、クリプトン社はミクのイラスト3枚を公開した。すると、ミクをアレンジしたイラストや楽曲、動画作品が瞬く間に登場したのだ。

3か月後、同社は投稿サイト「ピアプロ」を開設して、クリエイターたちが一定の枠組みの中で、著作権に縛られることなく共同制作する仕組みを整えた。

ネット文化は盛り上がり、楽曲の作り手のボーカロイド・プロデューサーや、巧みなイラストを描く“絵師”たちが次々に現れ、創作の連鎖が生まれた。

ミク使用の楽曲を収録したCDはオリコンチャートの上位を占めた。中でも『千本桜』はカラオケの定番曲となり、NHK紅白歌合戦では小林幸子さんが歌った。また、和楽器バンドのカバーも世界中から人気を得た。

初音ミクは(人形浄瑠璃など)生身ではないキャラクターに、命を吹き込む日本の伝統の「進化形」ともいえる。かたや、コロッケさんは怪獣やロボットのものまねもやってしまう。只者ではないところが、なぜか初音ミクとかぶるのである。

 

やんちゃで勝るビッグデータ

 

明治になって西洋からどっと入ってきた新しい言葉がある。先人たちは上手く翻訳をして自分のモノにした。今もふつうに使っている“存在”、“哲学”、“自然”なども、19世紀の後半に生まれた新語なのだという。

“社会”をひっくり返して“会社”にしたりと、当時の発想に遊び心を感じてしまう。

現在は、中国や新興国で、新しく考案されたサービスが猛烈な勢いで広がることがある。例えば、中国の自転車シェアリングサービス「モバイク」である。

自転車にはGPS(全地球測位システム)が付いており、どこでも乗り捨て自由。利用者は、スマートフォンで近くの空き自転車を探せるという。近距離の移動データも、使い方次第で新たなビジネス開発につながる貴重な情報源になる。

 

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同様のサービスが日本から生まれても、放置を防ぐなどの規則により、決められた場所へ返却しなければならないため、乗り捨て自由という「モバイク」の魅力が半減してしまう。

日本では、規則が先決と考えて、規則ができるまで待とう、ということになる。中国は、<規則にないものはやってしまえ>との“やんちゃ感”が強い。

社会に大きな“便利と有益”をもたらす事業を考えついたとき、“やんちゃ”に実行できる下地のある国は、(良し悪しは別に)強い国に化ける可能性があるらしい。

ビッグデータの活用次第では、日本にも商機があるはずだ。まずは、データを取って、蓄える習慣をつけることが肝要なのはいうまでもない。

 

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「本日の予定は?」。「4件あります。一つ目は10時の◯◯です」。天気やスポーツ結果の情報などもほとんど、AIスピーカーから得ている。今の気分に合った音楽を流したり、ラジオをかけて居眠りすることもある。

ひとりで車を走らせているときなど、AIスピーカーがあればとても楽になるといつも思う。運転しながら話すだけで何でもしてもらえるからだ。

1年前くらいから話題になった商品だが、日本でどれくらい浸透しているのかはわからない。AIスピーカーを巡る主導権争いは、音声操作の世界標準を巡る争いという側面もあるといわれる。

スピーカーに話した内容を、ビッグデータとして大量に集めれば、利用者の欲しているサービスがよくわかる。また、会話を重ねるたびに、AIが多くの言葉を学んで賢くなり、自然な会話ができるようにもなる。

今後のスキル(アプリ)次第では、友人や恋人などのデータを入れることで人格が備わったり、故人のデータをインプットすれば、AIスピーカーがイタコのようになり会話ができるかもしれない。

家庭のスピーカーだけでなく、自動車やロボットなどにも使える。利便性が上がれば利用者が増え、競争力をさらに高めることになるはずだ。