日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

日本の未来の未来は今にあり

 

ゆで方一つ取っても、家庭料理の奥は深い。ごちそうである必要はない。でも、毎日食べても飽きない味。まさに暮らしの中にあるのが家庭料理である。料理研究家・土井善晴さんがコラム記事に書かれていた。

見た目や技にとらわれず、ただ一生懸命作り続ければ、それでいい。それこそが尊い営みであり、そうして作られた料理には、愛情や家族の絆とやすらぎがこもる。それが家庭料理のすばらしさなのである。

家計の消費支出に占める食費の割合である「エンゲル係数」は、経済成長に伴い低下していくものとされる。1960年代前半の日本におけるエンゲル係数は40%近かった。95年頃から23%台で推移して、2005年頃は上昇基調に転じ、14年に24%を超えた。そして15年には25%を突破し、2016年で25.8%になっている。

 

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所得が伸びず、共働きで外食が増えることも原因のひとつだろう。基本給が上がらず苦しいが、食費は削れない。食料輸入の多い日本では、円安による価格の上昇も影響しているようだ。

食事そのものが、空腹を満たすものから楽しむものへと変わり、お金をかけても質のいいものを求める人もいる。また、高齢者世帯の増加で、おしゃれや趣味への支出が減る一方、食事は欠かせないため、弁当や総菜の利用が増える。

日本の人口は7年連続の減少で、65歳以上の割合は最高だという。(2017年10月1日現在の)人口推計では、総人口が前年より22万7千人減の1億2670万6千人。65歳以上の高齢者は56万1千人増の3515万2千人となり、総人口に占める割合は過去最高の27.7%なのだ。

15~64歳の生産年齢人口は、前年に比べて60万人減の7596万2千人。総人口の60.0%で、比較できる1950年以降で51年と並び2番目に少なかった。

 

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<脱走で 島の空き家の 多さ知る>(読売新聞・時事川柳 斎藤 茂さん・作より)。

愛媛県今治市の松山刑務所から、受刑者の男が脱走して1週間を過ぎた。その潜伏先とみられるのが、瀬戸内海に浮かぶ人口約2万3000人の向島(広島県尾道市)らしい。そこで捜索を難しくしているのが、1000軒以上に上る空き家の存在とのこと。

島外への人口流出で空き家が年々増え、2015年の調査では1089軒だという。屋内の探索には所有者や管理者の許可が必要で、所有者が複数であったり亡くなって不明の物件もあるため、捜索とは別に、不動産会社への問い合わせや近所の聞き込みなどに人手を取られているそうだ。

日本中で空き家がどんどん増えているという。住んでいた親が他界して賃貸や売却をしようとしても、住む人がいないのだ。私の妻の実家もその状態で空き家になっている。

中古品などを扱うウェブ掲示板に掲載して、0円で手放すケースもあるらしいが、不動産業者で取り扱いを断られ、買い手もつかない空き家や別荘がとても多いという。

 

10年前の同月同日も同記事が

 

2013年9月、映画『そして父になる』は初日2日間で興収3億1319万円、動員数25万3300人で、映画観客動員ランキングで初登場第1位となった。

主演の福山雅治さんが初の父親役。その妻には尾野真千子さん。かたや、リリー・フランキーさんと真木よう子さんが演じる夫婦と、因縁の間柄になる。産院による赤ちゃんの取り違えで、物語は動き出すからだ。

2008年4月12日の読売新聞の記事にある。男性は50歳になった。産院が赤ちゃんを取り違え、実の両親と違う夫妻に引き渡されて育った・・・と。

血液型が合わないことに気づき、DNA鑑定で実子にあらずと判明したのはその4年前。育ての両親をこよなく愛している。生みの親に会えたとしても、一組の親戚が増えたような感覚なのかも。男性は取材にそう語った。

それでも会いたい。運命のいたずらから50年、生みの親も年老いたはずだが、探す手がかりは見つからない。東京都立墨田産院、誕生日は1958年4月10日。

 

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本当の親に会いたい。2018年4月12日、NHKニュースの記事にあった。新生児が取り違えられた当事者の男性が訴えた。母親は3年前に「本当のことを伝えないまま、私が亡くなってしまうと、事実がわからなくなる」と打ち明けてくれた。

突然「自分の子どもではない」と告げられた男は、医院側に事実確認を求めた。DNA検査などをした結果、医院側が取り違えを認め謝罪したのだ。

そして、東京・文京区で順天堂大学附属の医院を運営する学校法人は、51年前に医院で生まれた赤ちゃんを取り違えた可能性が極めて高いと、今月に公表した。

取り違え被害の当事者である男性は、明らかになったあと医院側から謝罪を受けたが、実の両親についての情報は拒否されたという。別の人生を歩んでいたのかと思うと許せない。一度でいいから本当の親と会って話をしてみたい。男性はその気持を訴えた。

 

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その男性の母親が取り違えを疑ったのは1973年だという。小学校入学のときの血液検査だった。両親ともにB型なのに子どもはA型という結果が出て、母親はがく然とした。

医院に相談するため、何度も通い取り違えが起きていないか確認を求めたのに、「これ以上求めるなら裁判を起こしてください」との対応だった。

母親は、血液型が違うということで浮気を疑われ、取り違えられた男性の両親は離婚。その男性は親類の家に預けられ、高校にも行けず希望進路のほとんどを諦めないといけない状態になったという。

取り違えの発覚後、医院側に対し男性は、実の両親が誰なのか教えてほしいと依頼しました。しかし、医院側は個人情報を理由に情報提供を拒否したとのこと。

NHKの取材に対し学校法人の順天堂は、「ホームページで公表した以外のことは個人情報もあり対応できない」と話しているそうだ。

 

この星の壮大な時間旅行とは

 

“ダントツ”との言葉を世に広めたのは石原慎太郎さんとの説がある。月刊『文芸春秋』(1963年1月号)のヨットレース体験記に、「スタートからダントツ(断然トップ)で出た」と書いた記事を寄せた。

ダントツマークの美酒には“おごり”という毒も含まれていそうだ。支持率19%だった野田内閣から、政権交代を果たして間もない安倍内閣は、60%台の支持率を保ち2013年4月には68%に達した。2018年4月は38%になっている。

成人の腸は“善玉菌”が20%、“悪玉菌”が10%。そして、その他の70%が“日和見(ひよりみ)菌”と呼ばれ、善玉や悪玉にコロコロ寝返るタイプだ。これを支持率などの推移に当てはめてみるとおもしろい。

<地球は、46億年という壮大な時間旅行をしている>。生物地球化学者・大河内直彦さんのコラムにあった。それに比べ、“おごり”の美酒はちっぽけなものである。

 

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星屑が集まりこの星が育っていく。劇的な生物進化の痕跡や現代文明を影で支える石油の根源岩がある。そして、地震活動の爪痕に至るまで、この星がたゆむことなく重ねてきた時間が流れている。

今は、グーグルアースで一瞬にして世界各地へ旅することもできる。とはいえ、そこにあるのは情報の山でしかない。46億年の壮大な時間の流れの中で、たまたま生み落とされたのが私たち。自分たちに深く刻まれた時間の根源を求めて旅をするのも悪くない。

宇宙飛行士・向井千秋さんが、スペースシャトルの機内で詠んだ短歌があるという。<宙返り何度もできる無重力>と上の句を詠み、下の句は地上に募ったそうだ。<涙は頬を伝わりますか>、<しだれ桜はどう咲くのやら>などの名作が寄せられた。

米国の「アポロ11号」で人類が初めて月面に立ったのは半世紀弱前の1969年。日本人が宇宙のかなたで短歌を詠む日が来ることを夢にも思わなかった。

 

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2065年、日本の人口が8808万人に減少し、高齢者が約4割を占めるらしい。その風景は想像できないが、地球は今と同じに壮大な時間の流れの中にいる。

永井荷風さんは61歳のとき、遺言状を日記に記した。<一、墓石建立致スマジキ事>、<一、住宅ハ取壊スベシ>。遺産や蔵書類はどこにも寄付するな、と。

家族もなく文壇の交わりも廃し、孤高のまま世を去った作家は、後世の人々から慕われるのが真っ平御免と考えていたようだ。没後に、その人の生き方に共感をおぼえる人が増えている。死後のことは死んでみないと分からないものである。

折り紙付きの個人主義は、「日本の風土や芸術を愛しながら、国家や国民にあれほど冷淡で薄情だった文学者もめずらしい」とのこと。親交のあった仏文学者・河盛好蔵さんの弁である。

“冷淡で薄情”なまなざしをもって眺めた人々の末裔たちから、心ならずも慕われる。人の世は死んでからもままならないもの。ただ、“おごり”という毒がない人なのだろう。

 

推敲を重ねた180文字の時代

 

物事の表記で、「“1個"、“2つ"、“3メートル"、」などと、数量を示すことを基数詞といい、「“1番"、“2回目"、“第3回"」のように、順序や順番では序数詞と呼ぶとのこと。

<『田園』で知られるメロディーは、ベートーヴェンの交響曲6番の1楽章に出てくる・・・>などの記述では、“第"や“目"を付けずに、順序、順番を表す。しかし、「ベートーヴェン 交響曲第6番 田園 第1楽章」の方が端的でわかりやすい。

一姫二太郎」は、<最初が女の子、次が男の子の順番がよい>とのこと。本来、序数詞的な使い方のはずだが、<女の子1人、男の子2人>という基数詞にとらえる人もいそうだ。「一番姫二番太郎」なら間違えることもない。

昨年亡くなられた詩人の大岡信(まこと)さんは、「どんなに難しいことを考えていても、人に伝わらなくては意味がない」と、人へ伝える姿勢にこだわった。

 

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大岡さんは、朝日新聞折々のうた』での名解説者としてもおなじみだ。1979年に、古今の短歌や俳句、現代詩、歌謡などをとりあげ、180字で解説・批評するコラムを始めた。もちろん、140字のツイッターの影も形もない時代であった。

推敲を重ねたその短文は全6762回にものぼり、言葉への信頼を訴える太い幹へと育った。大岡さんのことを映画の世界に例えて、黒沢明さんと淀川長治さんを一人二役で演じた人ともいわれた。

<いとけなき日のマドンナの幸(さ)つちやんも孫三(み)たりとぞeメイル来る>。
ある年の歌会始に、大岡さんが詠んだ歌という。詩人という枠に納まらない表現者である。

<おおおかぁ/早すぎるとはもう思わない/でもおれたち二人の肉だんごもいつかは/おとなしくことばと活字に化してしまうのかな>。こちらは、親友の谷川俊太郎さんが大岡さんへ3年前に贈った詩である。

 

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大岡さんに、マリリン・モンローの死を悼んだ詩『マリリン』がある。俳人長谷川櫂さんはその一節を引用して大岡信さんへの追悼文を記した。

裸かの死体が語る言葉を
そよぐ毛髪ほどにも正確に
語りうる文字はないだろう
文字は死の上澄みをすくって
ぷるぷる震える詩のプリンを作るだけだ

人の死を前にしては、言葉も文字も詩も色を失う。しかし詩人は詩を作る。言葉の彼方にあるものを言葉でつかまえようとする・・・と。なぜなら世界は言葉でできているから。

舌先三寸で人を丸めこむ人物が国権の中枢部にいると嘆き、「人が互いに信頼し合って暮らすところでしか、社会の土台は固まらない。その基本は、相手の言葉が信用できるものであることを、他者がちゃんと認識できているか」。

相手の理解を得る努力を尽くさずに、おかしな言い訳や空疎な言い合いに終始する政治家や経営者。ネット上にもあふれる中傷。

大岡信さんは、言葉を「敏感な生きもの」と呼び、「自堕落な使い方を続けるなら、いとも簡単に劣悪な素材に変わってしまう」と警鐘を鳴らした。

 

普通でないから工夫で共感を

 

それさえ実現できれば、世の中のほとんどの問題が解決するのだ・・と。小説『ディーセント・ワーク・ガーディアン』(沢村凛さん著)にて、労働基準監督官の主人公が語る。

それは、<誰でもが、普通に働いて、普通に暮らせる>ということである。

メジャーデビューの大谷翔平選手は、二刀流で華々しいアピールを果たした。恐るべき身体能力と強運の持ち主である。あとは、ケガや病気に気を付けて年間を通した活躍を祈るだけだ。

11打数0安打5三振。こちらは、野村克也さんのプロ野球人生1年目だ。シーズンの終了後に解雇を通告されている。それでも、拝み倒して撤回してもらった。その人が戦後初の三冠王になり、名監督になった。

映画プロデューサーで作家の川村元気さんは、映画や小説の物語にて、“なんだろ、これ”という違和感をストックして、不意にそれがつながると、共感を呼ぶ作品が生まれると語る。

 

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最近の男女はなかなか恋愛をしない。川村さんは、従来のラブストーリーでは受け入れられないと気付き、小説『四月になれば彼女は』を執筆。恋愛感情を忘れた精神科医の男が、昔の恋人から手紙をもらったのをきっかけで、婚約者との関係が変わっていく物語だ。

映画『君の名は。』の前半部分は、観客がついていけないぐらいのスピード感を保ち、クライマックスの部分は1か所にまとめることなどを、新海誠監督に提案したという。そのため、見る側が引き込まれる作品へとなった。

川村さんいわく、<仕事って人生を面白くするための装置>なのだという。社会に出れば起きている時間の大半を、仕事にあてていることになる。できることなら、人生を楽しくするために仕事がしたいと思ったそうだ。

 

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巨人の星』の星飛雄馬の瞳に炎があった。実際、人の目に星もない。その画法を広めたのは手塚治虫さんのようだ。1953年連載開始の『リボンの騎士』で、主人公の瞳に初めて輝く星を宿らせた。

それは“発明”と言ってもいいかもしれない。あとを追う者が続き、登場人物の表情が豊かになり、髪の一筋一筋、涙や汗の光までも丁寧に描かれた。

「わ・る・な・ら・ハイサワー」というコピーで一躍有名になった博水社のハイサワーは、焼酎などのお酒を割って飲むための“割り材”として、代表的商品になった。飲食店などで、「○○ハイ」、「○○サワー」などと付くきっかけにもなった。

1928年創業の博水社は東京・品川で、ラムネやサイダーを製造・販売する町工場だった。50年代に米コカ・コーラなどが日本での販売を始めると、経営が傾いた。2代目社長の田中専一さんは、ジュース以外にも売れる商品が必要、と考え、新商品の開発に着手したという。

ネット検索では、ハイサワーグラスなるものがあり、スナックの美人ママにささやかれたい言葉がグラスに書かれていた。“帰っちゃいやよ”、“浮気はダメよ”、“お客さん終点だよ”などと。参ったなぁ、こりゃあ。

 

食事の場面でわかる名優の味

 

断崖絶壁で追い込まれ、犯行を自供する犯人。前場面はアリバイ崩しだ。怪しいと思える人物は殺される。2時間サスペンス(ドラマ)の鉄板である。それも今、崖っぷちに立たされ消えゆく番組が多い。

通称“土ワイ"の『土曜ワイド劇場』(テレビ朝日系)は昨年4月で放送終了。丸40年にわたる放送に幕が下ろされた。同じくブームをけん引してきた“火サス"こと『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ系)は、2005年に終えた。

他局も2時間ドラマ枠を減らして、続々とエンタメ枠に代わり、バラエティー番組に様変わりをしている。

2時間ドラマは多くのロケが必要で制作期間が長い。出演者のギャラも高いためコスパが悪い。それで、最近の視聴率は10%を超えるのがやっとだという。

 

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サスペンスドラマが流行する前は、ホームドラマが主流であった。ホームドラマには、食事の場面がつきものであろう。家族が食卓を囲み、丁々発止のやり取りをするのだ。

<慣れない人たちは、自分の台詞の番だな、と思う頃になると、ご飯を食べないの。口に入れない>(文春文庫『向田邦子全対談』より)。向田さんいわく、「食べているふりをする」のだという。

<台詞は明確に聞こえるんですけど、嘘なんですね>とも。嘘に走る気持ちを思えば、セリフが聞き取れなくては困るだろうし、口からご飯粒でも飛び出したら、視聴者に不快な思いをさせかねない。

ところが、森光子さんはお見事だったそうだ。自分がしゃべる番になっても、口いっぱい頬張ったという。それでいて“せりふの言いぶり"は確かで、見た目も優雅だったというから、やはり名女優なのである。

 

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積ん読"は外国語に訳しにくい単語だという。「本を積み重ねて読んでいない後ろめたさ」と、「いつかは読みたいとの気持ち」を込めて訳すのは、難題であるらしい。一年前の「天声人語」に記されていた。今と同じに、森友学園問題で揺れ動いていた時期だ。

“忖度<そんたく>"とくればいかがなものか。「他人の気持をおしはかること」の意味らしいが、こちらも外国語には訳しにくそうだ。日常であまり使わない言葉が脚光を浴びても、ぼんやりとして実態がわかりづらい。

学園が格安で国有地を入手できたのは、名誉校長だった首相夫人や首相官邸の意向を役人たちが忖度したためでは、との疑い。さらに、財務省国土交通省大阪府にも二重三重の忖度のにおいが・・・。そのような流れなのだろうか。

3月28日の参院予算委員会で、安倍昭恵夫人をめぐる答弁の際、共産党・小池書記局長から「名誉校長」について「いったいどこの学校や保育園なのか」と質された首相は、“しどろもどろにうろたえて"見られたものではなかった。麻生財務相の事実誤認によるマスコミ批判も同様にひどいものだ。

食べたふりでハッキリものがいえない嘘の演技にしか見えない。森光子さんの“名優ぶり"をしっかり学び、確かな口跡を身に付けていただきたいものである。

 

知的作業とは調べることから

 

今、大活躍中のソメイヨシノは一代限りの交配種で、種から成長させても同じ桜にはならない。そのため、接ぎ木で増やしてきたものなのだという。人為的に時間をかけてあれほどの数にしたと思えば感慨深いものがある。

民俗学者柳田国男さんの説にある。<江戸から明治に時代が移り、人は以前ほど泣かなくなった>と。教育の普及により、感情を言葉で伝える技術が磨かれるにつれ、泣くという“身体言語"の出番が減ったからだ、と。たしかに、理にかなっている。

いろいろな記事を読み、その内容(テーマ)よりも“なにげない情報”がとても気になる。

大阪弁の「ど」は、日本一短くて便利な方言との考え方もあるらしい。“どえらいことに”、とか“ど根性”などの「ど」を自在に使いこなすのが大阪の人だ。

 

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1962年の12月、全国の小学6年生1500人に「将来、就きたい職業」を聞いたという。
そのアンケート結果が雑誌『暮しの手帖』に載った。

男子の第1位はパイロットでもなく、プロ野球選手でもない。子どもたちの目にまぶしく映ったのは「サラリーマン」だったのだ。

気楽な稼業だったかどうか、同年の夏に植木等さん主演の『ニッポン無責任時代』が封切られた。植木さんの明るさと、高度成長期の空気がマッチして、サラリーマンの魅力がふんだんに表現されていた。

テレビでは自家用車のCMも多く流されるようになる。ご縁はなかったが、子ども心に乗りたいと思う車も現れる。(今でも好きな車である)“フェアレディZ”の誕生は1969年。来年で半世紀なのだ。

スポーツカーの走りと、乗り心地の良さ。スポーツカーとしては比較的安価であったことで国内外で爆発的にヒットした。「フェアレディ(Fairlady)」とはミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』から名付けられ、Zは未知への可能性と夢を意味するサブネームである。

 

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テレビの内容も、高度成長期とは大きく様変わりしている。<“調べる”ことはテレビを作る上で最も面白い作業>だと、テレビプロデューサー・白井博さんはコラムに書かれた。

“調べる”ことにより生まれてくるディレクターの直感や発想が、番組をより面白くするという。その面白い作業を近年は「リサーチャー」に任せる番組が多いのだ。リサーチャーとは、依頼主に必要な情報を的確に集めるプロの情報屋である。

テレビの分業化がすすむことは、<料理の一番おいしいところを捨てているようなもの>なのだという。それでも、おいしいところを捨てずに生かしている番組は今でもある。

白井さんはその例として、NHKの『ブラタモリ』を挙げた。街や地域の歴史を「地理学」で分析して、調べていく過程をそのまま見せる。そして、謎の解明の面白さを同時体験させて、その過程を支えているのはタモリさんの“知性”なのである、と。

“調べる”ことは知的作業であり、テレビが分業化で捨てたものは“知性”でもあるようだ。

 

 

今週のお題「お花見」

桜の下のその風景に笑顔あり

 

桜の下で、子どもたちは水遊びをしたり、とても暖かな春の陽気だった。昨日のお花見から5日前は雪だった。そのギャップがすごい。

歳時記では、“春の雨”と“春雨”を区別するという。“春の雨”は冬の名残りの冷たい雨をも含み、“春雨”は春の後半にしっとり降る雨を指す。後者の雨は、月形半平太が芝居で「春雨じゃ、濡れてゆこう」と言う、あの雨のことだ。

花見といえばお酒でしょう、と浮かれる御仁も多かろう。私も同類である。

先の東京五輪が3年後に迫る中、1961年の通常国会で<酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律>である酩酊防止法が成立した。その提案理由として、「オリンピックを目前に控えている事情などを考慮・・・」、などとの説明があったようだ。

 

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アルコールの影響で正常な行為ができない恐れのある者を“酩酊者”と定義し、度の過ぎたふるまいには罰則を設けた。4年に一度の五輪のみならず、毎年浮かれる花見の季節も注意が必要なのは間違いない。

とはいえ、桜が満開になるこの時期に毎年思うことであるが、桜の木の下を散歩する人や花見客は実にいいお顔になっている。笑顔があふれているのである。

ふだん、同じ場所を散歩する方の笑顔を数値化して比較できたらおもしろい、などと考えてしまう。単なる妄想の範疇かと思いきや、笑いを測定できる機械が存在しているようだ。

2008年、関西大学木村洋二教授らの研究チームが、笑いの測定装置を開発したとのこと。人が笑ったとき、筋肉に流れる微かな電気信号(筋電位)を、横隔膜、ほお、腹筋の皮膚周辺に付けたセンサーでとらえ、1秒間に3000回測定する。それを独自に開発したソフトで分析するのだ。

笑いの単位はaH(アッハ)で表し、“アッハッハ”と笑う1分節が「1aH」になり、爆笑し続けたりすると値はどんどん大きくなる。

 

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笑い測定機は測定部分の反応の組み合わせで、笑いを分類することができ、愛想笑いなどを見抜くことができる。その活用法として、お笑いコンテストの審査に利用することや笑いと健康の関係の探求に使われるらしい。

笑いの医学的効果(免疫機能、血糖値、ストレス等への影響)を科学的に検証するツールにもなるようだ。

愛想笑いやつくり笑いには反応しないが、心の底からおかしい本物の笑いだけを感知できるというのは、最近話題のAI(人工知能)みたいで興味深い。

思えば、腹の皮がよじれるほど大笑いした記憶は遠く、愛想笑い、つくり笑い、薄ら笑い、苦笑いに慣れきった我が身だと、何aHの数字になるのか想像ができない。

一見、快活に高笑いをしながら、目だけは笑わない先輩や上司もいるだろう。笑い測定機を使いチェックしてみたくなるが、笑えない結果のオチになりそうでこわい。

 

 

今週のお題「お花見」

 

放火ほど容易ではない「消化」

 

ブログネタに窮すると、一年前で同時期のスクラップ記事を読み返すことがある。一年前にこんなことがあったのか、と忘れかけているものは多い。しかし今は、一年前のニュースがピッタリと重なり、逆に驚いている。もちろん、森友学園騒動のことである。

1979年、戦闘機売り込みをめぐる政界工作の疑惑の渦中で、大手商社の副社長は緊張のあまり署名に手間取る。「書けない」とのつぶやきをテレビの音声が拾った。手が震えて止まらないのである。国会の証人喚問というと、今でも思い出す場面である。

「記憶にございません」の連呼もこの頃だったのでは、と私の記憶にはある。一年前の国会にて籠池泰典森友学園理事長(当時)はさらさらと署名した。質問する議員には目を向けて「的外れと思います」と応じる。そして、「事実は小説よりも奇なり」と言い放つ。

 

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100万円授受の場面で籠池さんは、安倍昭恵首相夫人と一対一の場でもらったと述べた。付き添い職員を外す“お人払い”で、封筒の中の“金子(きんす)”がやりとりされた、と臨場感たっぷりに語られた。まるで時代劇のようであるが、「確かに、もらった」と言い切る籠池さんであった。

一年前の国会では、なにかにつけて「忖度」という言葉が都合よく使われ、うやむやでハッキリしないままになった。それにしても、庶民感覚では百万円をめぐる記憶の食い違いを理解しがたい。

<消火は放火ほど容易ではない>。芥川龍之介さんの『侏儒の言葉』にある。あった事実は証明できても、なかった事実は証明しにくいという。

昨秋、安倍首相は「“もり・かけ”問題」を消火しようと、必要のない解散選挙を600億円かけて断行した。その後、支持率が回復して有頂天だったところへ、今回の森友学園問題が再燃した。今は選挙前より状況が悪化している。

 

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アメリカの貧困街・ブロンクス区(ニューヨーク市)で発祥のヒップホップは、サンプリングという合理的な作曲手法が用いられたそうだ。サンプリングは主に、ジャズやファンクなどの音源から“声”や“音”などを抜粋する“切り貼り”のようなものだ。

ヒップホップの世界で使われている「作曲」という言葉は、まるっきりの“無”から何かを創造するという意味ではなく、すでに存在している名曲から、気持ちのいい部分を切り取りドラム・マシーンを叩いてできたビートの上にのせる作業なのである。

1970年代、ヒップホップが誕生してからしばらくは、この手法がポピュラーなものだった。著作権の問題さえなければ、これほど合理的な作曲法はない。

今の政府、与党は著作権ならぬ国民の無視で、おいしいところだけを集めるサンプリングに走っているのではなかろうか。なにをやっても許されるとの奢りが、この先も出てきそうな気がしてならない。

 

春が眠いことにも理由はある

 

10代で熱心に聴いた曲は年齢を重ねても耳に快く響くらしい。たしかに、たまに行くスナックでも、古い歌が根強く歌われている。いい歳の我々が聴いても懐メロなのだから、歌の生命力はたいしたものだ。

高齢者を支えるイベントとして、昭和に流行した“歌声喫茶”が各地で復活しているという。キーボードやギターの演奏に合わせ、40~70代の男女たちがジュースやコーヒーを飲み、一緒に歌うそうだ。

私は物心ついた頃、歌声喫茶が周りになく未体験なのだが、とても楽しそうである。みんなで歌うことで一体感が生まれ、仲間作りや社会参加を促す効果がみられるという。

歌集をめくり、歌謡曲や童謡のリクエストが飛び交い、最後は手拍子をしながらみんながお気に入りの懐メロを大合唱。歌詞を見ながら歌うことは脳の活性化につながる。ふだん話さないような人とも、一体感と安心感が生まれ、人とかかわるきっかけになる。

 

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<カツドウヤほんまにヤクザでんな。この世界には、ひとつきり思想あらしまへん、ウン、おもろいやないか、よっしゃそれゆこうと>。鞍馬天狗を演じた嵐寛寿郎さんの言葉である。観客を楽しませることに貪欲なカツドウヤ(映画人)にささげた賛嘆の辞なのだ。かつて、日本映画の黄金期には「よっしゃそれゆこう」の勢いがあった。

1980年代半ば、勢いのあった新聞もなくなるといわれた。発行部数は減少していても、なんとか維持している社はある。インターネットでも新聞記事を元に書かれているものが多い。

その頃、テレビは報道機関としての地位を確立したという。『ニュースステーション』など、(ドキュメンタリー中心だったテレビ報道に)わかりやすさと見せることを加えた。90年代以降は衛星回線の発達で、CSやBSデジタルといった新しい媒体が加わり、多チャンネルの時代になる。

 

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21世紀に入り、インターネットの時代になる。世の中の動きはすべてスマホやパソコンで得ている人が増える。“記憶の外部化”も進み、電話番号も覚えていない。

長い年月をかけて、メディアは移り変わるという。メディアの命運は、国民に必要な情報を提供しているかどうかで決まる。

デジタル化以降、テレビの未来を語られることが多い。ヒット番組の二番煎じが現れる業界体質。マンネリ化したお笑い番組。大人の観たい番組が少なくなった。若者のみならず、大人のテレビ離れも進んでいる。

私自身、リアルタイムでのテレビ放送よりも、インターネット配信を視聴することが多くなっている。共有財産である電波を使うテレビはテレビ局のものではなく、視聴者の顔色を窺って各局で同じ内容の番組を流されても困る。かつてのテレビは「春の陽の“ビックリ箱”」みたいであった。今はもう驚かない。

<春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。>(夏目漱石さん『草枕』より)。春に眠くなるのも、逆に気持ちがそわそわするのも、原因は同じらしい。寒いかと思えば、暖かい。その急な気候の変化に自律神経が乱れるためなのだと。