日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

継がれゆく人情というDNA


<煮凝の とけたる湯気や 飯の上>という句がある。

明治生まれの俳人鈴鹿野風呂(のぶろ)さんの作品だという。

“にこごり”は、「煮凝り」や「煮凍り」とも書くそうな。

前の晩にこしらえた煮ものの煮汁が寒い台所で凍り、その中に魚の身がとじこめられている。口に入れるとやさしく溶け、甘い魚の脂が広がる。

寒天を使い型に流し込む煮凝りもあるが、寒気という“天然の料理人”にはとうていかなわない。

<妻よ、誤解するなかれ 愛情は、冷めたのではない 固まったのである>。
こちらは10年以上前の「心に響く三行ラブレター」の入選作である。

誰もが時間をかけて風味ゆたかに固められればいいのだが、夫婦の愛情という料理の調理法はなかなか難しいらしい。(ふむ)

 

1782

 

出生率の低下が始まって40年も経つらしい。
“子宝”という言葉を忘れ去られたことはないだろうが、子どもを子宝と感じなくなった社会が少子化の根っこにあるのでは、という意見を訊いた記憶がある。

命を子につないでいくという、(生物としての)日本人の生命力が弱体化し、保育所の子どもの声に活力を感じるのではなく、騒音だと苦情にすり替わったりする。

子どもの死亡率が高く多産だった時代、子育ては親族や近隣社会が総掛かりだったという。子育ては未来を信じることにほかならないからなのである。

幕末にやってきた欧米人たちは、日本人の男女が子どもと戯れている光景を、驚きとともに讃えたそうだ。

<社会が育てる主人公こそが子ども>なのである。だからこその“子宝”なのだろう。

 

1783

 

<母親が病気を患い金に困り、ろくに食べることすらできない力士佐野山がいた。無敵の横綱谷風は気の毒に思い、結びの一番でわざと負けてやる>。

江戸の「人情相撲」を描いた落語である。

7勝7敗で千秋楽を迎えた力士はなぜか勝つことが多い。
米国の経済学者はそれを数字で示した。

勝ち越しか負け越しか瀬戸際の力士が8勝6敗の相手と対戦した場合、約80%は前者が勝っていた。

2000年までの約10年間にわたる3万2千の取組を調べた結果だというから、今の相撲と一致するかどうかはわからない。

星の貸し借りがあるのでは、ということを漠然と訊いていたが、「そんなの八百長じゃないか」と言い切れない自分がいる。

昔の力士の取り組みをテレビで観ると、ホッと感じるなにかがあるのだ。それは、仕切りのスムーズさや、勝ち力士が土俵外や倒れ込んでいる相手へ、当然のように手を差し伸べるしぐさに、である。自分の忘れていたものがそこにあるような気になる。

思えば自分の中にも、日本人のDNAが受け継がれているらしい。そのDNAはむずかしいことでもなんでもない。かんたんに言えば<相手を思いやる気持ち>なのだから。

 

脳における男女のちがいとは

 

早いもので、2月の1週間目がもう過ぎゆく。

<梅二月 ひかりは風と ともにあり>。
俳人・西島麦南(ばくなん)さんの句である。

いつも光が、(気温にさきがけて)次の季節の到来を告げる。
日脚も伸び、東京では冬至の頃より日の出が10分ほど早く、日の入りは40分ちかく遅い。

痛勤電車に疲労宴。これは誤字や誤植の傑作であるが、(正月明けより繰り返しつつある)日常の北風の中で、“光の春”がやって来るのを感じる季節になっている。

それにしても、2月のことを“光の春”とはよく言ったものだ。

誤字ほどではないが、男女間の会話も妙な“チグハグ感”がよくある。
うちの奥さんとの会話では、同内容のスタートから、途中でお互いの言っていることがズレてきて、平行線になってしまうことが多い。それでも、言いたいことを言い合い、結論でなんとか治まってしまうからふしぎだ。

 

1780

 

以前読んだ記事によると、脳科学を切り口に男女の考え方や感じ方の違いを学ぶ企業研修が広がっているという。それは、男性上司と女性部下の関係作りに活かしたり、コミュニケーションのヒントになるため、のものらしい。

仕事を遂行する上で男女差はないが、脳の違いからくる感じ方や好みの対話などが異なるのだという。職場で起こりがちな男女間の認識のズレや違いを意識することで、関係が良い方向になる。

ご存知の通り、右脳は「感じる領域」であり、左脳は「言語領域」をつかさどる。

女性型の脳は左右の脳をつなぐ神経の連絡がよく、感じたままをしゃべり、共感によって癒やしを得やすい。

男性型の脳は、左右の脳の独立性が高く連絡が少ないため、客観的で自分の気持ちや体調及び状況の変化などに左右されずに、任務の遂行が可能になる。

 

1781

 

男性上司と女性部下という関係で、企画を提案する場面を想定すると、女性型の脳は自分の直感を重視し、「これが最高です」と伝えがちになる。男性型の脳では一押しの提案に対し「思いこみで客観性に欠ける」と低い評価を下してしまう傾向にある。それを避けるには、複数の提案を示すのがよい。

女性は経過を大事にし、男性は結論を求める。女性部下がトラブルの経緯などを長々と話すと、「結論から言って」と遮ってしまう。私にもその体験がある。

今の時代は、女性が上司で部下が男性というケースもあるだろう。どちらの場合も、「女だから」「男ってやっぱり」などと、型にはめないことだ。

偏った見方を持つことは、部下を管理する立場として問題がある。適度なバランス感覚を持って見ることが必要になる。

男女で脳の形や使い方に違いがあることや脳の違いを知っていれば、意思疎通のヒントとなることはまちがいない。

また、脳には個人差があり、男性でも女性型の脳、女性でも男性型の脳を持つ人もいる。
臨機応変な女性型の脳は、肩書を越えての提案に抵抗がない。男性型の脳は秩序を重んじ、結果がよくても(提案や発言の段階で)不快に感じることもある。

男女脳の良いところでバランスよく組合せられれば、異性どうしで最上の仕事ができるはず。しかし、私のような女心のわからぬ者には、難問なのかもしれないが。

 

作品の真価は耳への心地よさ

 

今でも新聞などのコラムによくお名前が出る向田邦子さんは、食べ物にまつわる話が多い。向田さんの書かれた、味わい深いドラマの数々は、食べ物と無関係ではないようだ。

テレビドラマの家族がすき焼きを囲む場面を書くとき、向田さんは台本に肉の値段を書き添えた。家族だけなら100グラム550円、来客中なら750円、という具合にである。

その以前、スタッフが暮らし向きの倹しい一家のすき焼きに、高価な霜降り肉をふんだんに用意したのに懲り、値段を指定するようになった。

向田さんはまた、大ヒットテレビドラマの台本に、<朝食の献立。ゆうべのカレーの残り>とも書いた。母の作る(翌朝)濃いめのカレーは専門店もかなわない、のだと。

食欲とは食べ盛りの昔への郷愁らしい。「おかわり!」の記憶が、のちのちまで食欲を刺激する。そして、カレーライスは郷愁を誘う料理のひとつなのであろう。

 

1779

 

受刑者の隠語で、豚肉とジャガイモの煮付けのことを「楽隊」と呼んだらしい。
“ジャガブタジャガブタ”のシャレなのだとか。

それは言葉で言いようもないほどの美味であったとのこと。社会主義者の作家・荒畑寒村さんは随筆『監獄料理』に記した。

出獄して荒畑さんは夫人に作らせたが、いかにしてもその味が出ない。
「お前も一度入って自分で味わってみろ。工夫がつく」。
そう勧めたところ、夫人に「バカを言うな」と大目玉を食らったそうな。

居心地が決して良いはずのない環境でも、ふだん味わうことのできないご馳走は存在するようだ。

 

1778

 

元プロボクサー・輪島功一さんは、小学校の思い出として忘れられない味があるという。

終戦の数年後で、甘い物が貴重だった時代である。
雑貨屋の同級生が売り物のようかんを見せびらかし、「玉ネギを生で1個食べたら、やるよ」と言ったそうだ。

輪島さんは「よし」というと、鼻をつまんで玉ネギにかじりついた。汁に涙を流しながら夢中で食べた。そして、(ひりひりする舌に染み通る)もらったようかんの甘さはいまも忘れないのだと。

夏目漱石さんの『文学論』には、饅頭の出てくる一節がある。
<饅頭の真価は美味にあり。その化学的成分のごときは饅頭を味わうものの問うを要せざるところなり>。

饅頭に例えたのは俳句であり、句を味わうのに成分論議(難解な解釈)は無用。
「うまければいいのだ」と言い切った。

俳句にかぎらず、言葉で表現させるものの真価は“美味”であり、耳にした時の心地よさにあるのかもしれない。それは、日常会話についても同じことがいえそうだ。

 

「泰然自若」を実践できる人達

 

勝負の世界と商品開発は別物だが、記録や形を残す人たちには共通するモノがある。
「“なにか”を成した人」の話は、ジャンルの違いを超えてとても興味深い

昨年、アップルは13年ぶりの減収減益で、「成長に陰りか」と話題になった。
iPod、iPhone、iPadといった新製品カテゴリを大ヒットさせ、好業績を叩き出してきたが、ついにブレーキがかかった格好だ。

創業者のスティーブ・ジョブズさんが2011年に死去後、ヒット商品がないことを嘆く声が巷では強まっている。

iPhoneの新型機種やiPadミニなどを投入したが、iPhone登場時のような“ときめき”を与えるには至っていない。既存商品の改良版にとどまるだけなのだ。

新分野に挑んだ「アップルウォッチ」も、販売当初こそ騒がれたがスマホに比べ用途が限られ、利用者へ幅広く浸透しているとはいえない。

スティーブ・ジョブズさんの偉大さが、どんどん浮き彫りになっている。

 

1776

 

1969年(昭和44年)の大相撲・大阪場所で、横綱大鵬は物言いのつくきわどい一番で平幕の戸田に敗れ、「45」で連勝が途切れた。

ビデオ判定が導入される前の時代である。テレビ中継のビデオでは、大鵬の足が土俵に残っているのを確認された。大鵬は勝っていたのである。

「誤審だァ!」と支度部屋に押しかけた報道陣に、大鵬は語ったという。

「負けは仕方がない。横綱が物言いのつく相撲を取ってはいけない」。
勝負審判ではなく、あんな相撲を取った自分が悪いのだ、と言い切った。

<孤掌(こしょう)、鳴らしがたし>とは、片方の手のひらだけで手を打ち鳴らすことはできない、との意味。

<人の営みはどれも、相手があって成り立っている。勝負の世界も“競い合う”という形の共同作業にほかならない>。

昭和の大横綱大鵬が現役の頃、(北海道の実家に)自分の写真と並べて、ライバルの横綱柏戸の写真を飾っていたそうだ。

「大相撲の人気は自分ひとりでつくったのではなく、柏戸関がいてこそ」、と。

 

1777

 

ソニーを「モルモット企業」と呼んだのは、評論家・大宅壮一さんだという。

「業界に先駆けて新しいことに手をつけても、それはほかの大企業が乗り出す前の実験のようなもので、しょせんはモルモットにすぎない」と斬り捨てた。

それを聞いて喜んだのはソニーの創業者・井深大さんである。
モルモットは“ひと真似”をしない“ソニー・スピリット”の象徴なのだ、と。

将棋の大山康晴十五世名人は生前、よく語ったという。
「得意の手があるようじゃ、素人です。玄人にはありません」。

<大駒の飛車角から小駒の歩兵までを自在に使いこなせないで、プロ棋士は名乗れまい>。

69連勝の双葉山はどんな敵に対しても、<泰然自若として些少の動揺をも示さず>に勝ったという。相手の方が自滅していくような印象すら受けたらしい。

双葉山のDVDを見て研究したという白鵬は、双葉山の「泰然自若」を自分も実践すると、以前に語っていた。

土俵上の所作一つ一つをゆっくりとする。闘志が顔に出ないと言われるのも、何ものにも動じない心を目ざしているからだ、と。

スティーブ・ジョブズさんや井深大さんも「泰然自若」を実践されてきた方なのだろう。
若き日のジョブズさんは、「ウォークマン」というソニー製品にワクワクしてときめいた。その体験で、あのiPodが誕生したのである。

 

 

目に見えない内蔵時計は正確

 

<言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである>と言ったのは寺山修司さん。

そして、「言葉を友人に持とう」とも・・・。

名言や有名人の言葉ばかりではなく、日常で出会った言葉にハッとさせられる。
<花は咲くときにはがんばらない。ゆるめるだけ>。

新聞の投稿欄で見た記憶がある。
中3の女子が、(担任からもらった)誕生日カードに書かれていた言葉を紹介していた。

 

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花や木には目に見えない時計が内蔵されているらしい。
植物学者・田中修さんの『つぼみたちの生涯』にあった。

針は暗黒の時間を刻み、それが一定の長さを超えたとき、つぼみをつけるそうだ。

キク科のオナモミは8時間30分の暗黒を経てつぼみをつけるという。8時間15分ではつけない。その内蔵時計はとても精巧なようだ。

孤独で暗闇のその先に、花の咲く日が用意されている。

大相撲にも一輪の冬菊がいる。
初場所で初の賜杯を手にした大関稀勢の里が、第72代横綱に昇進した。

 

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日本出身の横綱の誕生は、1998年に昇進した3代目若乃花以来で19年ぶりだ。

新入幕から73場所を要した。年6場所制となった1958年以降では最も遅い昇進だ。
それだけに、頂点を極めたその忍耐力を称えたい。

稀勢の里横綱昇進は、他の日本人力士の大きな励みになるのはまちがいない。

即効薬のように力をくれる言葉もあれば、浸みた雨が泉となり湧くように、時間をかけて心に届く言葉もある。

人との出会いにとてもよく似ている。

 

「見る」のではなく「観る」こと

 

2005年の世界陸上ヘルシンキ大会・四百メートル障害で、銅メダルを獲得した為末大さん。その速さの秘密は、世界最高と言われるハードルを跳ぶ技術であり、「サムライハードラー」と呼ばれるようになった。

為末さんはコーチにはつかず、一人で工夫を重ねながら世界のトップクラス入りを果たした。その強さの秘密は意外なところにあった。

<日本古来の動きや考えをトレーニングに取り入れた時から、よくなってきた>と為末さん。そのヒントは、(兵法の極意を説いた)宮本武蔵の『五輪書』にあったといい、その一例として<「見る」のではなく「観る」こと>の重要さを挙げた。

 

1772

 

「見る」とは直視することであり、そうすると肩に力が入ってしまう。ハードルが通り過ぎる景色のように感じ始めると、リラックスして跳べるのだという。

五輪書』には、大きく広く目を配る「観」の目が大事なのだとある。
<離れたところの動きをはっきりとつかみ、また身近な動きにとらわれず、それをはなして見ること>なのだ。

求道者のような深みのある言葉であり、人生万般に通じる指摘でもある。

マラソンでいくつものレースを走破している友人がいる。同じ距離を走るのだが、その景色のちがいで大好きなレースとそうでないレースがあるという。

昨年は大好きなレースで体調を害したが、なんとか完走を果たした。からだはきつくてつらい展開になったにも関わらず、ゴールが近づくにつれ、「もう終わってしまうのか」と寂しさがこみあげた。

からだは音を上げているはずなのに、もっともっと走り続けたくてたまらなかったそうだ。

 

1773

 

景色を感じとる視覚では、色の関連も影響がありそうだ。

イヌやネコなど多くの哺乳類が色を感じとる場合、青と赤を中心に認識する“2色型”の視覚だという。鳥や爬虫類など(哺乳類以外の)脊椎動物は、4種類を感じる“4色型”が多いらしい。

ヒトは3種類のオプシンの組み合わせで色を認識する“3色型”で、脊椎動物の中では珍しいタイプのようだ。

「光の三原色」といえば、赤、緑、青の3色のこと。
ヒトは赤と緑を同時に見ると“黄”に感じるなど、3色の組み合わせで色を認識する。
3色すべてが均一に混ざると“白”になる。

絵の具やプリンターなどで様々な色を表現するときは、シアン(明るい青)、マゼンタ(赤紫)、黄という「色の三原色」が基本となる。フィルム写真の時代も、この組合せで色を再現していた。

もともと脊椎動物は4色型で、哺乳類は進化の過程で2色型に変わった。初期の哺乳類は夜行性で、色覚があまり重要ではなかった。

ヒトやチンパンジー、ゴリラなどの霊長類は3色型に変化した。霊長類は昼間、森の中で活動するように進化し、木漏れ日などで色合いが変化しやすい環境だった。
そして物を色で見分けるという利点で、3色型になったとのこと。

どうやら、感じとる視覚の進化は、景色による影響がとても大きいようだ。

 

天から授かる芸の表現者たち

 

水生の無脊椎動物であるクマムシは地球上で最もたくましい動物だという。
非常に強い耐久性を持つことから、チョウメイムシ(長命虫)とも言われたそうだ。

昆虫ではなく、緩歩動物門に分類され、体長は0.1ミリから1ミリ程度。
4対の足で歩く。クマの歩みのようにも見える。その動きや体形で愛嬌が感じられる。

凍結や乾燥といった極限状況では、体内の水分を3%くらいに減らして過酷な環境に耐える。代謝がほぼない状態で生を保つとされる生き物なのだ。

真空でも生き延びられる唯一の動物であり、高圧、放射線にも強い。そして、100度の高温でもマイナス273度でも大丈夫だとのこと。

厳しい条件の下で「乾眠」、「凍眠」などと呼ばれる仮死状態となり、体が縮んで“樽”のような形になるらしい。

昨年、国立極地研究所の発表では、30年以上冷凍保存されていたクマムシが解凍されて復活し、繁殖にも成功した。通常の寿命は数十日間程度というから、「樽」の耐久性は驚異だ。

 

1770

 

人間も負けてはいられない。すごい生命力の人がいる。将棋の加藤一二三 九段である。
1954年に最年少14歳でプロデビューし、18歳でA級八段に昇級、「神武以来の天才」と呼ばれた。

加藤九段は今月19日、引退が確実になったばかりであったが、その翌日の対局では、「史上最年長勝利」の記録を77歳0か月で更新した。

<天職(天から授かった職業)を全う>という言葉がある。加藤九段にとって、全うという気持ちがあるのだろうか。この先、もっともっと極めていくような気迫を感じてならない。

だれにも寿命はある。一生をかけて天職に磨きをかける人たちも多いはずだ。
晩年の黒澤明監督は、「一生という時間があまりにも短い。3人分の人生がほしい」と発言していた。

歌舞伎役者・18代 中村勘三郎さんは2012年12月に57歳で亡くなられた。ご本人もファンの方たちも、その先の“芸の磨き”の目撃が楽しみでたまらなかったはずだ。

思えば、3代目 古今亭志ん朝さんの早世も悔やまれる。
2001年10月に63歳で亡くなられた。

勘三郎さんは同世代で、テレビの子役時代からその成長過程をリアルタイムで知ることができたが、志ん朝さんはテレビ創生期の売れっ子タレントとのイメージが強かった。
志ん朝さんの落語のすばらしさを知るようになったのは、亡くなられたあとからだった。

 

1771

 

古今亭志ん朝の高座に初めてふれたとき、度肝を抜かれた」という。
(5代目古今亭志ん生さんの次男である)志ん朝さんが朝太(ちょうた)を名乗り、くりくり坊主姿で高座についた19歳の春のことである。

<すでに一丁前の落語家の風情がそなわり、臆するところのない高座態度に目をみはった>。演芸・演劇評論家の矢野誠一さんはコラムにそう記した。

二つ目になってすぐ、上野本牧亭で2か月に一度の勉強会「古今亭朝太の会」を開いた。若手の分際で異例のことだったが、毎回超満員の客を集めたこの会で、次々に大ネタを披露。

62年3月に志ん朝を襲名。入門5年という記録的なスピードで真打に昇進した。
同業者からの評価も非常に高く、8代目桂文楽鶴さんの一声によるものともいわれた。

このときはすでにNHK「若い季節」のほかテレビが5本、ラジオ3本のレギュラー番組を持ち、落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりした。

後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させた。

7代目立川談志さん、5代目三遊亭円楽さん、5代目春風亭柳朝さんと共に、若手真打の頃から東京における『落語若手四天王』と称された。

古今亭志ん朝さんの晩年に7代目立川談志さんは、「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。立川談志さんとの若手時代からのライバル関係は有名であり、志ん朝さんに真打昇進を追い越されたことで、談志さんが奮起するきっかけになった。

もし、志ん朝さんがご存命であれば、桂歌丸さんや林家木久扇さんと同年代だ。
どんな噺を聴かせてもらえるのだろうか。叶わぬ夢を馳せるだけである。

 

鏡をのぞけばそこに寅さんが

 

寺山修司さんいわく<駅と書くと列車が中心で、停車場と書くとにんげんが中心という気がする>。

同じ意味の駅と停車場。列車とバスのちがいはあれど、停車場には和気あいあいとした集合風景が浮かんでくる。その中心にいてくれたらいいのが寅さんのような“ひと”だ。

“正月映画”の顔だったフーテンの寅さんが銀幕から消えて20余年。
人情深くて明快な寅さんは、生き方の理想像でもある。

寅さんの仕事はテキヤ(香具師“やし”)だ。正月の神社や夏祭りの夜店で、威勢のいい言葉を繰り出し、商品を売っていた。

それでも雨が降れば雨に泣き、風が吹けば風に泣く。明日をも知れぬ身なのである。
各地の祭礼を訪ね、放浪の旅を続けた彼は一体何者だったのか。そして今、どこを旅しているのだろう。

 

1768

 

初めは落語の「熊五郎」という名前を検討した、というのが原作者の山田洋次監督。
しかし、秀才の兄がいて次男坊だから、威勢のいい“寅”がよかろうと「寅次郎」になった。

姓も「轟(とどろき)」を考えたが、語感が強すぎるため「車」一つに落ち着いた。
それが、「姓は車、名は寅次郎」の誕生秘話である。

テレビ版『男はつらいよの最終回』で、寅さんは旅先の奄美大島でハブにかまれ死んでしまう。<自由奔放な生き方を、管理社会は許さないのだ、と主張したかった>と山田監督は言う。

ところが、テレビ局へ抗議の電話が殺到し、映画になってよみがえった。

山田監督は作家・遠藤周作さんと「晩年の寅さん」について対談したことがあったそうだ。
国民的映画へと人気が定着した頃である。

その際、「幼稚園の用務員はどうだろう」という話になった。

寺の境内で園児らとかくれんぼしているうちにポックリ息を引き取り、本堂の軒下あたりで見つかるというストーリーだ。町の人たちは地蔵を建て、名づけたのは「寅地蔵」。
御利益は、縁結びだったらしい。

 

1769

 

寅さんは鏡の中にいるような気がしてならない。

身近な道具の鏡。「左右が反対に見える」というのは常識であるが、そう見える理由には定説がないらしい。

<光学的には、鏡像は左右反転しない>とのこと。左手に腕時計をして鏡の前に立つと、鏡像の腕時計は自分から見るとやはり「左側」の手にある。自分の鏡像を見る実験では、「左右反転していない」と答える人が3割以上もいたという。

反転していると感じる人の場合、視点が無意識に「鏡の中の自分」へと変わる。「鏡の中の自分」にとっては、腕時計は右手にある。ただ、視点の変わらない人は反転を感じない。

光学的に反転しているのは、左右ではなく「前後や奥行き」(鏡面に垂直な方向)なのだ。北を向いて鏡に正対すると、鏡像は逆の南を向く。自転車が実際に走っている道路の手前側は、鏡では奥に映る。

身近な道具だが、謎めいていて奥深い。寅さんという人物もその謎によく似ているのだ。

寅さんは身近にいる。自分の父親、息子にも寅さんを感じた。自分も寅さんみたいだと言われたり感じたりするが、現実とは別の(鏡の中にいるような)ふしぎな感覚なのである。

だからなのか寅さんは今、鏡の中を旅しているような気がしてならない。

 

美輪明宏さんの妖艶な交友録

 

美輪(丸山)明宏さんの生まれ育った繁華街は、長崎・丸山花街の入り口にあり、隣が劇場の「南座」、2軒隣は美術骨董屋さんだという。前の楽器屋さんの蓄音機からは、一日中クラシックから流行歌までが鳴っていた。

その楽器屋さんで、フランス語の勉強のつもりで手に取ったのが、古き良き時代のシャンソンのレコードで、片っ端から聴いたという。それが、のちにシャンソン歌手になるきっかけのひとつになる。

劇場では様々な芝居がかかり、幼い美輪さんは支配人夫婦にかわいがられ、いつも舞台の真ん前に陣取った。1930年代は映画の黄金時代でもあり、フランス、アメリカ、日本の名作を見る機会に恵まれた。

実家のカフェーで働く(いわくありの)インテリの人たちから、美輪さんは文字を教わった。
幼い頃から“かわいい”、中学では“きれい”と言われ、その賛美は「ごきげんよう」とご挨拶を受けるような感覚だった。

東京の国立音楽大学付属高校1年生の夏休み直前に、「美少年募集」との小さな新聞広告を見て、すぐに応募した。募集先は、東京・銀座4丁目交差点近くで、三島由紀夫さんの小説『禁色』(1951年)に登場する「ルドン」のモデルになった店だ。

1階が喫茶店で、2階がクラブのその店では、文化人が多く、三島さんも常連客であった。ある日美輪さんは2階にいた三島さんに呼ばれた。

「何か飲むか?」
「芸者じゃないから結構です」
「生意気でかわいくない子だな」
「きれいだからかわいくなくてもいいんです!」。

これがふたりの初対面の瞬間なのか。興味深い対話である。
その頃には、進駐軍のキャンプ回りも始め、ステージデビューもしている。

音楽高校1年の冬、美輪さんは学費も下宿代も払えなくなって退学した。
衣料品などを扱う父の事業が傾き、長崎の実家が破産したのだ。

路頭に迷い、東京・新宿駅で3か月ほどホームレス生活を送っていた頃、知り合いの大学生から、早稲田の喫茶店でシャンソンの会をやるので、前座で出演しないかと声がかかった。

その店で歌っていた宝塚出身の橘薫さんが美輪さんの歌を気に入り、
「今度、銀座に新しいキャバレーができて歌手を募集しているから、行ってみたら」と、紹介状を書いてくれた。

 

1765

 

銀座7丁目角の「銀巴里(ぎんぱり)」である。
1951年創業のキャバレー「銀巴里」は、のちに日本初のシャンソン喫茶となり、多くの文化人に親しまれた。美輪さんのほか、金子由香利さん、加藤登紀子さんらが活躍した店である。

1950年代半ばの「銀巴里」には、多彩な客が集(つど)った。
川端康成さん、江戸川乱歩さんのような大御所。三島由紀夫さん、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、遠藤周作さんら新進の作家たち。そして、当時風来坊の野坂昭如さんや学生だった寺山修司さんたちも。

画家・岡本太郎さんは、フランス語で『巴里の屋根の下』の主題歌を、時々飛び入りで歌ったそうだ。東郷青児さんも美輪さんのファンで、よく通った。

東郷さんとの出会いは、銀座で東郷さんと一緒にいた友人が、美輪さんを見つけて「絵のモデルになってくれませんか」と声をかけたことからだ。
「歌手ですから」と、美輪さんは断った。

江戸川乱歩さんとの出会いは、美輪さんが「銀巴里」のステージに立ち始めた17歳の頃である。乱歩さんご贔屓の十七代目中村勘三郎さんが「銀座ですごい美少年が歌っている」と触れ込んで、連れて来たそうだ。

読書少年だった美輪さんは乱歩作品もほぼ読んでいて、すいすいお話ができたと言う。

探偵の明智小五郎に憧れ、
「先生、明智ってどんな人?」と尋ねると、乱歩さんは手首を指しながら、「ここを切ったら青い血が出るような人だよ」と言った。

「わあ、素敵ですね。長身白皙の美青年で冷静沈着。どんな時も驚きあわてず、頼もしくて優しくて、神秘的な感じですもの」と返したら、「ほお、そんなことがわかるのかい。じゃあ、君の腕を切ったら、どんな色の血が出るんだい?」と乱歩さん。

「七色の血が出ますよ」と美輪さんが応えると、「ほう、面白い。それなら切ってみようか。おーい、包丁持って来い!」。

美輪さんはすかさず言った。「およしなさいまし。切ったら七色の血から七色の虹が出て、お目がつぶれますよ」って。
「その年でそのセリフかい」と乱歩さんはさらに面白がったという。

美輪さんが三島さんの脚本で『黒蜥蜴』を演じた68年には、乱歩さんが他界されていて、「ご覧いただけず残念」と(美輪さんは)語っていた。

 

1766

 

ヨイトマケの唄』のヒットで暮らしがようやく上向きになった頃、美輪さんは「銀巴里」に一ファンとして来ていた寺山修司さんという天才と親しくなった。

アングラ小劇場ブームの立役者でもある寺山さんは、1967年1月に「演劇実験室 天井桟敷」を結成。67年4月、『青森県のせむし男』で天井桟敷は旗揚げした。その台本が面白いと感じた美輪さんは依頼を受け出演した。

東京・赤坂の草月ホールは、3日間の公演予定で観客を収容しきれず、アートシアター新宿文化に引っ越し興行し、爆発的なヒットとなった。

気をよくした寺山さんは続けて、美輪さんを主役にした『毛皮のマリー』を書いた。

新宿が政治に、文化に、燃えていた時代である。
芝居は、午後10時に通常の映画上映が終わってから始まるので、終了時刻は夜中の12時を回る。

ある日寺山さんが、終わってから「もう1回やってください」と美輪さんに頼んだ。
「何言っているの。真夜中にお客なんか来やしないわよ」と言いながら美輪さんは外を見ておどろいた。前の大通りが人でぎっしり埋まっていたのだ。劇場のドアを開け放し、ロビーまで観客を入れて追加公演となった。

1967年の『毛皮のマリー』公演は、興行的に大成功を収めた。

美輪さんはその後、他の芝居や映画で忙しくなり、寺山さんの「天井桟敷」とはご無沙汰になっていく。

16年を経て、東京・渋谷の西武劇場(現パルコ劇場)で、美輪さん主演による『毛皮のマリー』の再演が決まった。1983年4月、寺山修司さんはその稽古中に倒れ、5月4日に47歳で亡くなった。

6月10日からの舞台は、はからずも寺山修司さんの追悼公演になった。

寺山さんは、エキセントリックで気が小さくて、それでいてふてぶてしいところもあって、相反するものをいっぱい持っている人だと、美輪さんは言う。

寺山さんと三島さんはよく対比される。二人と一緒に仕事をした美輪さんの印象では、その膨大な読書量からくる知識といったらいい勝負とのこと。

<叙情的でため息が出るほど甘くせつなく美しいものを愛する感覚を生まれつき持っていられて、そういうところはよく似て違いを探せば、三島さんは、高級志向で都会的なものが好き。市井の下品なものは受け付けない>そうだ。

 

1767

 

三島さんは、子どもの頃からの愛読書の一つである江戸川乱歩さんの『黒蜥蜴』を戯曲化し、1961年に発表し、62年には初代水谷八重子さんが初演した。

<自分の芝居は『鹿鳴館』以外客が入らない、皆こけていると言われて悔しい。見返してやりたい>と、三島さんは漏らしていたらしい。

1968年4月、渋谷の東横劇場での美輪さん主演による『黒蜥蜴』の公演は大ヒットし、連日キャンセル切符を待つ長蛇の列になった。

松竹で映画化も決定した。監督に起用されたのは、当時無名に近かった深作欣二さんである。映画には、三島さんがボディービルで鍛えた肉体を自慢するかのように、人間の剥製として登場した。

三島さん出演条件の裏話として、美輪さんとのキスシーンを作ることを、深作監督が(美輪さんに)内緒で決めていたという。

さて、そのシーンの撮影風景である。

美輪さんがちょっとだけキスしたら、三島さんが「たったそれだけ?」と言った。
<私は「死体が口をきいちゃいけません!」と返しました>と美輪さん。

美輪さんが三島由紀夫さんと最後に会ったのは、あの市ヶ谷での自決事件の1週間前。
美輪さんは35歳の時であった。

日劇の『秋のおどり』に出演中の美輪さんの楽屋を、珍しく一人で訪ねて「三島です」と言って、真っ赤なバラを両腕いっぱいに抱えて入って来たそうだ。
いつものように冗談を言いながら去って行った。

<その抱えきれないほどのバラの花は、「これからのコンサートや舞台の分だよ」という意味だったのですね>。美輪さんの忘れ得ぬシーンであった。

 


参照:読売新聞『時代の証言者』

 

ほめてほめてほめちぎれ検定

 

職業を訊かれて「人間だ」と答えたのは、芸術家・岡本太郎さんである。
日本画家の千住博さんは、その話を著書に記し「究極の正しい発言」と絶賛した。

人はコミュニケーションすることで生きている。こころの奥底にある想像力、創造力を駆使して、(自分らしい表現手段で)伝えようとする時に芸術が生まれる。芸術は人間の本質そのものであり、千住博さんにとってそれは最上のほめ言葉だった。

時代の流れで、今や人工知能(AI)が人間らしさの“聖域”である芸術にさえ踏み込みつつある。故人作家の作風をまねて短編小説を創作したり、自動的に作曲をしたりと。

AIはどうなのか知らぬが、人間 ほめられて悪い気はしないものだ。

ネット内では、なじる、けなすなどのネガティブな言葉が飛び交うこともあるだろう。
現実の社会も昔よりとげとげしい時代になっている。叱られてばかりでは自己肯定感もどんどん低くなりがちである。

 

1763

 

目の前の小さな価値を見つけることを大切にし、短所も前向きにとらえる。おべんちゃらやおだてあげとは違う、ほめ上手の達人たちの検定があり、じんわり人気なのだという。

その「ほめ達」検定では、「自分が言われてうれしいほめ言葉」を5分以内で30個書き出すのを目標にしたり、5分間で(会社の上司などを思い浮かべ)「普段あまりほめない人の素晴らしい点を探すこと」を書き出す。

<ほめるということは、人、モノ、出来事の価値を発見すること>であり、<あら探しをやめて、プラスの面を探して光を当てること>でもある。

自分が正しいと思うことに照らし合わせ“ダメだし”するのではなく、物事を多面的にとらえて「いいね!」の評価をしあうのだ。

 

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普段、嫌だと思っていた人でも、いっしょに呑めばその人の良いところしか見えてこない。
私である。なんどかエントリでも書いているが、私は“ほめ上戸”であり、お酒が入るとマメになり目の前の人がものすごくいい人に見えてしまう。

かつての職場に酒癖の悪い四天王がいて、4人ともすぐに呑み相手に絡み、駄々をこねたり、ケンカなど、数えきれないほどのエピソードがある。それまでの呑み仲間からは煙たがられ、仲間もいなくなる。

私だけは彼らと抵抗なく呑めていたので、ためしに全員を集める実験を試みた。

酒癖の悪い者同志だから、ぶつかる可能性が大きい、と思いきや、癖の悪い者同志でおたがいを理解し合えている。まさに<毒には毒をもって制す>の結果であった、

車の自動運転や介護ロボットなど、10~20年後には国内の労働人口の49%の仕事がAIやロボットに置き換えられるとの推計がある。「ほめ達」検定を常に満点で通過するロボットも出てくるだろう。

私もその検定に挑戦してみたいものの、お酒をたらふく呑んでいるときしか実力が発揮できない。そんな弱点もロボットにはないはずだ。

それでも私はほめ上手のロボットに興味がある。いっしょにお酒を呑んだら“ほめ殺し”のせめぎ合いになりそうだ。そうなれば、うれしくて手放せなくなることだろう。