日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

鏡をのぞけばそこに寅さんが

 

寺山修司さんいわく<駅と書くと列車が中心で、停車場と書くとにんげんが中心という気がする>。

同じ意味の駅と停車場。列車とバスのちがいはあれど、停車場には和気あいあいとした集合風景が浮かんでくる。その中心にいてくれたらいいのが寅さんのような“ひと”だ。

“正月映画”の顔だったフーテンの寅さんが銀幕から消えて20余年。
人情深くて明快な寅さんは、生き方の理想像でもある。

寅さんの仕事はテキヤ(香具師“やし”)だ。正月の神社や夏祭りの夜店で、威勢のいい言葉を繰り出し、商品を売っていた。

それでも雨が降れば雨に泣き、風が吹けば風に泣く。明日をも知れぬ身なのである。
各地の祭礼を訪ね、放浪の旅を続けた彼は一体何者だったのか。そして今、どこを旅しているのだろう。

 

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初めは落語の「熊五郎」という名前を検討した、というのが原作者の山田洋次監督。
しかし、秀才の兄がいて次男坊だから、威勢のいい“寅”がよかろうと「寅次郎」になった。

姓も「轟(とどろき)」を考えたが、語感が強すぎるため「車」一つに落ち着いた。
それが、「姓は車、名は寅次郎」の誕生秘話である。

テレビ版『男はつらいよの最終回』で、寅さんは旅先の奄美大島でハブにかまれ死んでしまう。<自由奔放な生き方を、管理社会は許さないのだ、と主張したかった>と山田監督は言う。

ところが、テレビ局へ抗議の電話が殺到し、映画になってよみがえった。

山田監督は作家・遠藤周作さんと「晩年の寅さん」について対談したことがあったそうだ。
国民的映画へと人気が定着した頃である。

その際、「幼稚園の用務員はどうだろう」という話になった。

寺の境内で園児らとかくれんぼしているうちにポックリ息を引き取り、本堂の軒下あたりで見つかるというストーリーだ。町の人たちは地蔵を建て、名づけたのは「寅地蔵」。
御利益は、縁結びだったらしい。

 

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寅さんは鏡の中にいるような気がしてならない。

身近な道具の鏡。「左右が反対に見える」というのは常識であるが、そう見える理由には定説がないらしい。

<光学的には、鏡像は左右反転しない>とのこと。左手に腕時計をして鏡の前に立つと、鏡像の腕時計は自分から見るとやはり「左側」の手にある。自分の鏡像を見る実験では、「左右反転していない」と答える人が3割以上もいたという。

反転していると感じる人の場合、視点が無意識に「鏡の中の自分」へと変わる。「鏡の中の自分」にとっては、腕時計は右手にある。ただ、視点の変わらない人は反転を感じない。

光学的に反転しているのは、左右ではなく「前後や奥行き」(鏡面に垂直な方向)なのだ。北を向いて鏡に正対すると、鏡像は逆の南を向く。自転車が実際に走っている道路の手前側は、鏡では奥に映る。

身近な道具だが、謎めいていて奥深い。寅さんという人物もその謎によく似ているのだ。

寅さんは身近にいる。自分の父親、息子にも寅さんを感じた。自分も寅さんみたいだと言われたり感じたりするが、現実とは別の(鏡の中にいるような)ふしぎな感覚なのである。

だからなのか寅さんは今、鏡の中を旅しているような気がしてならない。

 

美輪明宏さんの妖艶な交友録

 

美輪(丸山)明宏さんの生まれ育った繁華街は、長崎・丸山花街の入り口にあり、隣が劇場の「南座」、2軒隣は美術骨董屋さんだという。前の楽器屋さんの蓄音機からは、一日中クラシックから流行歌までが鳴っていた。

その楽器屋さんで、フランス語の勉強のつもりで手に取ったのが、古き良き時代のシャンソンのレコードで、片っ端から聴いたという。それが、のちにシャンソン歌手になるきっかけのひとつになる。

劇場では様々な芝居がかかり、幼い美輪さんは支配人夫婦にかわいがられ、いつも舞台の真ん前に陣取った。1930年代は映画の黄金時代でもあり、フランス、アメリカ、日本の名作を見る機会に恵まれた。

実家のカフェーで働く(いわくありの)インテリの人たちから、美輪さんは文字を教わった。
幼い頃から“かわいい”、中学では“きれい”と言われ、その賛美は「ごきげんよう」とご挨拶を受けるような感覚だった。

東京の国立音楽大学付属高校1年生の夏休み直前に、「美少年募集」との小さな新聞広告を見て、すぐに応募した。募集先は、東京・銀座4丁目交差点近くで、三島由紀夫さんの小説『禁色』(1951年)に登場する「ルドン」のモデルになった店だ。

1階が喫茶店で、2階がクラブのその店では、文化人が多く、三島さんも常連客であった。ある日美輪さんは2階にいた三島さんに呼ばれた。

「何か飲むか?」
「芸者じゃないから結構です」
「生意気でかわいくない子だな」
「きれいだからかわいくなくてもいいんです!」。

これがふたりの初対面の瞬間なのか。興味深い対話である。
その頃には、進駐軍のキャンプ回りも始め、ステージデビューもしている。

音楽高校1年の冬、美輪さんは学費も下宿代も払えなくなって退学した。
衣料品などを扱う父の事業が傾き、長崎の実家が破産したのだ。

路頭に迷い、東京・新宿駅で3か月ほどホームレス生活を送っていた頃、知り合いの大学生から、早稲田の喫茶店でシャンソンの会をやるので、前座で出演しないかと声がかかった。

その店で歌っていた宝塚出身の橘薫さんが美輪さんの歌を気に入り、
「今度、銀座に新しいキャバレーができて歌手を募集しているから、行ってみたら」と、紹介状を書いてくれた。

 

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銀座7丁目角の「銀巴里(ぎんぱり)」である。
1951年創業のキャバレー「銀巴里」は、のちに日本初のシャンソン喫茶となり、多くの文化人に親しまれた。美輪さんのほか、金子由香利さん、加藤登紀子さんらが活躍した店である。

1950年代半ばの「銀巴里」には、多彩な客が集(つど)った。
川端康成さん、江戸川乱歩さんのような大御所。三島由紀夫さん、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、遠藤周作さんら新進の作家たち。そして、当時風来坊の野坂昭如さんや学生だった寺山修司さんたちも。

画家・岡本太郎さんは、フランス語で『巴里の屋根の下』の主題歌を、時々飛び入りで歌ったそうだ。東郷青児さんも美輪さんのファンで、よく通った。

東郷さんとの出会いは、銀座で東郷さんと一緒にいた友人が、美輪さんを見つけて「絵のモデルになってくれませんか」と声をかけたことからだ。
「歌手ですから」と、美輪さんは断った。

江戸川乱歩さんとの出会いは、美輪さんが「銀巴里」のステージに立ち始めた17歳の頃である。乱歩さんご贔屓の十七代目中村勘三郎さんが「銀座ですごい美少年が歌っている」と触れ込んで、連れて来たそうだ。

読書少年だった美輪さんは乱歩作品もほぼ読んでいて、すいすいお話ができたと言う。

探偵の明智小五郎に憧れ、
「先生、明智ってどんな人?」と尋ねると、乱歩さんは手首を指しながら、「ここを切ったら青い血が出るような人だよ」と言った。

「わあ、素敵ですね。長身白皙の美青年で冷静沈着。どんな時も驚きあわてず、頼もしくて優しくて、神秘的な感じですもの」と返したら、「ほお、そんなことがわかるのかい。じゃあ、君の腕を切ったら、どんな色の血が出るんだい?」と乱歩さん。

「七色の血が出ますよ」と美輪さんが応えると、「ほう、面白い。それなら切ってみようか。おーい、包丁持って来い!」。

美輪さんはすかさず言った。「およしなさいまし。切ったら七色の血から七色の虹が出て、お目がつぶれますよ」って。
「その年でそのセリフかい」と乱歩さんはさらに面白がったという。

美輪さんが三島さんの脚本で『黒蜥蜴』を演じた68年には、乱歩さんが他界されていて、「ご覧いただけず残念」と(美輪さんは)語っていた。

 

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ヨイトマケの唄』のヒットで暮らしがようやく上向きになった頃、美輪さんは「銀巴里」に一ファンとして来ていた寺山修司さんという天才と親しくなった。

アングラ小劇場ブームの立役者でもある寺山さんは、1967年1月に「演劇実験室 天井桟敷」を結成。67年4月、『青森県のせむし男』で天井桟敷は旗揚げした。その台本が面白いと感じた美輪さんは依頼を受け出演した。

東京・赤坂の草月ホールは、3日間の公演予定で観客を収容しきれず、アートシアター新宿文化に引っ越し興行し、爆発的なヒットとなった。

気をよくした寺山さんは続けて、美輪さんを主役にした『毛皮のマリー』を書いた。

新宿が政治に、文化に、燃えていた時代である。
芝居は、午後10時に通常の映画上映が終わってから始まるので、終了時刻は夜中の12時を回る。

ある日寺山さんが、終わってから「もう1回やってください」と美輪さんに頼んだ。
「何言っているの。真夜中にお客なんか来やしないわよ」と言いながら美輪さんは外を見ておどろいた。前の大通りが人でぎっしり埋まっていたのだ。劇場のドアを開け放し、ロビーまで観客を入れて追加公演となった。

1967年の『毛皮のマリー』公演は、興行的に大成功を収めた。

美輪さんはその後、他の芝居や映画で忙しくなり、寺山さんの「天井桟敷」とはご無沙汰になっていく。

16年を経て、東京・渋谷の西武劇場(現パルコ劇場)で、美輪さん主演による『毛皮のマリー』の再演が決まった。1983年4月、寺山修司さんはその稽古中に倒れ、5月4日に47歳で亡くなった。

6月10日からの舞台は、はからずも寺山修司さんの追悼公演になった。

寺山さんは、エキセントリックで気が小さくて、それでいてふてぶてしいところもあって、相反するものをいっぱい持っている人だと、美輪さんは言う。

寺山さんと三島さんはよく対比される。二人と一緒に仕事をした美輪さんの印象では、その膨大な読書量からくる知識といったらいい勝負とのこと。

<叙情的でため息が出るほど甘くせつなく美しいものを愛する感覚を生まれつき持っていられて、そういうところはよく似て違いを探せば、三島さんは、高級志向で都会的なものが好き。市井の下品なものは受け付けない>そうだ。

 

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三島さんは、子どもの頃からの愛読書の一つである江戸川乱歩さんの『黒蜥蜴』を戯曲化し、1961年に発表し、62年には初代水谷八重子さんが初演した。

<自分の芝居は『鹿鳴館』以外客が入らない、皆こけていると言われて悔しい。見返してやりたい>と、三島さんは漏らしていたらしい。

1968年4月、渋谷の東横劇場での美輪さん主演による『黒蜥蜴』の公演は大ヒットし、連日キャンセル切符を待つ長蛇の列になった。

松竹で映画化も決定した。監督に起用されたのは、当時無名に近かった深作欣二さんである。映画には、三島さんがボディービルで鍛えた肉体を自慢するかのように、人間の剥製として登場した。

三島さん出演条件の裏話として、美輪さんとのキスシーンを作ることを、深作監督が(美輪さんに)内緒で決めていたという。

さて、そのシーンの撮影風景である。

美輪さんがちょっとだけキスしたら、三島さんが「たったそれだけ?」と言った。
<私は「死体が口をきいちゃいけません!」と返しました>と美輪さん。

美輪さんが三島由紀夫さんと最後に会ったのは、あの市ヶ谷での自決事件の1週間前。
美輪さんは35歳の時であった。

日劇の『秋のおどり』に出演中の美輪さんの楽屋を、珍しく一人で訪ねて「三島です」と言って、真っ赤なバラを両腕いっぱいに抱えて入って来たそうだ。
いつものように冗談を言いながら去って行った。

<その抱えきれないほどのバラの花は、「これからのコンサートや舞台の分だよ」という意味だったのですね>。美輪さんの忘れ得ぬシーンであった。

 


参照:読売新聞『時代の証言者』

 

ほめてほめてほめちぎれ検定

 

職業を訊かれて「人間だ」と答えたのは、芸術家・岡本太郎さんである。
日本画家の千住博さんは、その話を著書に記し「究極の正しい発言」と絶賛した。

人はコミュニケーションすることで生きている。こころの奥底にある想像力、創造力を駆使して、(自分らしい表現手段で)伝えようとする時に芸術が生まれる。芸術は人間の本質そのものであり、千住博さんにとってそれは最上のほめ言葉だった。

時代の流れで、今や人工知能(AI)が人間らしさの“聖域”である芸術にさえ踏み込みつつある。故人作家の作風をまねて短編小説を創作したり、自動的に作曲をしたりと。

AIはどうなのか知らぬが、人間 ほめられて悪い気はしないものだ。

ネット内では、なじる、けなすなどのネガティブな言葉が飛び交うこともあるだろう。
現実の社会も昔よりとげとげしい時代になっている。叱られてばかりでは自己肯定感もどんどん低くなりがちである。

 

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目の前の小さな価値を見つけることを大切にし、短所も前向きにとらえる。おべんちゃらやおだてあげとは違う、ほめ上手の達人たちの検定があり、じんわり人気なのだという。

その「ほめ達」検定では、「自分が言われてうれしいほめ言葉」を5分以内で30個書き出すのを目標にしたり、5分間で(会社の上司などを思い浮かべ)「普段あまりほめない人の素晴らしい点を探すこと」を書き出す。

<ほめるということは、人、モノ、出来事の価値を発見すること>であり、<あら探しをやめて、プラスの面を探して光を当てること>でもある。

自分が正しいと思うことに照らし合わせ“ダメだし”するのではなく、物事を多面的にとらえて「いいね!」の評価をしあうのだ。

 

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普段、嫌だと思っていた人でも、いっしょに呑めばその人の良いところしか見えてこない。
私である。なんどかエントリでも書いているが、私は“ほめ上戸”であり、お酒が入るとマメになり目の前の人がものすごくいい人に見えてしまう。

かつての職場に酒癖の悪い四天王がいて、4人ともすぐに呑み相手に絡み、駄々をこねたり、ケンカなど、数えきれないほどのエピソードがある。それまでの呑み仲間からは煙たがられ、仲間もいなくなる。

私だけは彼らと抵抗なく呑めていたので、ためしに全員を集める実験を試みた。

酒癖の悪い者同志だから、ぶつかる可能性が大きい、と思いきや、癖の悪い者同志でおたがいを理解し合えている。まさに<毒には毒をもって制す>の結果であった、

車の自動運転や介護ロボットなど、10~20年後には国内の労働人口の49%の仕事がAIやロボットに置き換えられるとの推計がある。「ほめ達」検定を常に満点で通過するロボットも出てくるだろう。

私もその検定に挑戦してみたいものの、お酒をたらふく呑んでいるときしか実力が発揮できない。そんな弱点もロボットにはないはずだ。

それでも私はほめ上手のロボットに興味がある。いっしょにお酒を呑んだら“ほめ殺し”のせめぎ合いになりそうだ。そうなれば、うれしくて手放せなくなることだろう。

 

人を理解し共に成長する車?

 

「この頃は化け物どもがあまりに居なくなり過ぎた」と嘆いたのは、物理学者・寺田寅彦さんである。(『化け物の進化』より)。

妖怪でも鬼でも、不可思議な存在への憧憬や戦慄こそが、科学に対する少年の興味をふるい立たせたものだという。科学の目的とはむしろ「化け物を捜し出す事」なのだ・・・と。

昨年、トヨタ自動車は他のメーカーやアプリ開発会社に対し、共同開発への参加を呼びかけ、“つながるクルマ"を大幅拡大する意向を示した。顧客の運転状況などのビッグデータを収集し、製品開発や新サービスの提供に生かす。

“つながるクルマ"はカーナビなどの車載通信機を通して、トヨタのサーバーから道路状況の変化に応じた地図を更新したり、事故時には場所や状況を自動で通報もする。

 

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2014年12月には世界初のセダン燃料電池自動車MIRAI(ミライ)も発売された。
本格的な普及には(燃料補給の)水素ステーション拡大がカギを握る。現状で水素スタンドはまだまだ足りないという。

IoT(物のインターネット)ブームの昨今、家電も車もインターネットにつながるご時世のようだ。大量の情報が蓄積された複合機も、プリンターのセキュリティー対策が講じられなければ、インターネット上でかんたんに見えてしまう。

多数の機能が一体化した利便性の陰で、危機意識の希薄さが改めて浮き彫りにされる。

しかし、パソコンやスマホがインターネットにつながることは理解できても、物がネットにつながることは理解しにくい。その意識を持てる前から、“つながる新商品"に触れさせられるユーザーたちはたまったものではない。

 

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この年明け早々にトヨタは、(米ラスベガスで開幕した)家電・技術見本市「CES(セス)」で、人工知能(AI)を搭載したコンセプトカー「コンセプト・アイ」を公開した。

AIはドライバーと、会話などのやりとりをするそうだ。緊張や疲れがあると判断すれば
ゆったりした音楽をかけたり、危険な運転状態になった場合は、自動運転に切り替わる。
ドライバーの好みも記憶して、それに合わせた走行ルートも提案してくれる。

トヨタは人の感情を読み取るAIを搭載したコンセプトカーを、<人を理解し、ともに成長するパートナー>と位置づけるそうだ。

AIが運転者の表情や声のトーン、動作、やり取りなどのデータを分析し、気持ちや好みを学習するからだ。そして、<運転すればするほど、人工知能が成長する>という。

野生のイメージの強いカラスは、人の言葉をまねることもあるらしい。
「トーちゃん、トーちゃん」、「オカア、オカア」などと。
都市の鳥を研究する唐沢孝一さんが、『カラスはどれほど賢いか』に書いている。

話をするのは、けがなどで人に保護されたカラスばかりとか。
言葉を発すると人が異常に反応することを見抜き、生き延びるため語彙を身につけるという。

どういうわけか私には、これらのカラスと人工知能が、ソックリに感じられてしかたがないのである。

 

言葉を獲得する以前のコミュ

 

人工知能」や「ロボット」という単語が氾濫する昨今、(すでにある)身の周りのものを見ても、私にはロボットのように感じてならない。

たとえば全自動洗濯機。スイッチひとつでなんですべてができてしまうのだろうか?
使う度に感心する。二槽式洗濯機に比べたら格段の進歩である。二槽式にしても、「たらいと洗濯板」から見れば、夢のような道具であったはずだ。

調理家電の自動化もめざましいものがある。油なしで(熱風で)加熱して揚げる「ノンフライヤー」におどろいていたら、レシピは“ほったらかし”で「煮る・揚げる・いためる」を自動でこなす電気無水鍋なるものも登場。

食材から出てくる水分を用いて、適当な大きさに整えた食材と調味料を入れれば、手を加えなくても調理してくれる家電なのだ。

肉じゃがは、適当な大きさに切ったタマネギ、ニンジン、肉、ジャガイモと調味料を入れ蓋をするだけ。出来上がり希望時間などを設定し、あとはそのまま。

カレーも同様に具材とカレーのルーを入れボタンを押すだけ。食材が崩れないように硬さなどをセンサーで判断するそうだ。

 

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「ITを自己表現のツールに、世界を変える力を持つスマホ世代」などと言われて久しい。今のハイティーンは“スマホ世代”から進化した“動画世代”だとか。大人の目は介在せず、投稿は楽しいことを近くの友だちに見せるという感覚で。

一昨年の調査では、18~19歳の利用率はLINEが9割、ツイッターが8割で、スマホの利用目的は「友人や家族とのコミュニケーション」、「写真や動画を撮る」、「動画、ゲームなどを楽しむため」などだ。

編集技術がとても高く、何を発信するかをよく考えている一方、豊富な情報量に慣れて、文字情報の必要性すら感じなくなっている。SNSなどを通じて誰とつながっているかがわかり、人間関係が『見える化』されている。

ラクダが砂漠に棲めて、キリンが棲めないのはなぜだろう。「背が高すぎるんです」と登場人物が語る。推理作家ユッシ・エーズラ・オールスンの小説にあった。

「キリンの場合、見渡すかぎりここには砂しかないと悟ってしまいます。幸運にもラクダはそれがわかりません」。オアシスがすぐ先にあるかもしれない、と期待しながら進めるのだという。

人間もラクダに似て、見えるのは“今”だけで、あした何が起きるかは知らない。知らないおかげで、人生の旅が続けられる。

 

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人が一定の信頼関係を持てると思う知人の数は150人ほどで、それが脳の大きさに適する集団の規模だという。

人間は食物を仲間のところへ運び一緒に食べるようになった。バラバラで食べるサルに対し、“共感力”を発達させ、家族を営み150人程度の共同体をつくった。

(言葉を獲得する以前の)人間がもたらしたコミュニケーションは<一緒に食べること>だった。

現在も言葉以前の交流が大切らしい。握手し、抱き合うことなどの触覚は大事で、「実際に会わずネットだけでつながる」という近年の傾向に、人間の身体はまだ適応していないとか。

現代人のペット熱などもその裏付けで、人は効率性だけでは生きられない。
思えば自分も、生身の身体を使って人とつながる意識が希薄になっている。

家電やスマホも、被災などで電気がつながらなくなると使えない。
いったい今の生活はどうなるのだろうか。いつも気になる。

その状況では、全自動洗濯機より便利な道具は「たらいと洗濯板」であり、電気無水鍋も役立たずである。

 

人生に句読点を打ちやすい国

 

本年もよろしくお願い申し上げます。

いつも読んでいただき、ありがとうございます。
そして、皆様のすばらしい記事をたくさん読ませていただけることに感謝しております。

<7・2・3(なにさ)から 7・2・4(なによ)に変わる デジタルの 時計見ながら 快速を待つ>。俵万智さんの歌である。

デジタル時計はよくしゃべるらしい。短い言葉でも口数は多い。
その点、アナログ式は寡黙のようだ。歌の中の時刻とすれば、長針と短針が“へ”の字口のままなにも言わない。

パソコンと向き合う時間の長いわが身としては、アナログ脳の退化に一抹の不安を隠し切れない。デジタルでは1秒足らずで解答が出せる「数独(ナンクロ)」の難問に、長い時間を費やしてしまうのもその思いがあるからだろう。

 

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1年の移り変わりのこの時期に、思うことはいつも同じである。
生まれてから死ぬまで時間はずっと流れていくだけで、時の流れに特別な区切りはないはずなのに、なんで年末年始はいつもの月替りとちがう気分になるのか?

人間は、(時間の流れの中に)句読点を求める習性のある生物らしい。
とくに日本は、四季の変化に恵まれた国であり、夏の暑さや冬の寒さなどと自然の変化をハッキリと感じとれる。時間の経過を体感で受け止めることができるように、擦り込まれているようだ。

年末年始には、いろいろな飲み会やイベントなどが集中するのも、年が改まるという意識にかられてのことである。

四季の移り変わりで、人生の句読点を打つことに慣れている日本人が、四季の乏しい国で暮らすと不満のタネにもなりうる、と訊いたことがある。

1年が過ぎたはずなのに、過ぎた感じがしない。それはまるで、人生に句読点がないような気分なのだという。我々は、四季の変化で知らないうちに「脳トレ」をしているともいえそうだ。

 

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脳には、自分が置かれた状況や論理的な関係の変化に合わせて活動を変える回路が存在するという。その回路は、活動に“句読点”が打たれる度に、活性化されるそうだ。

暑い夏にぼんやりと過ごしていても、秋のひんやりとした空気に触れると身が引き締まる思いに変わる。年末年始の忘年会や新年会といった会では、自分を振り返り未来に思いを馳せる。季節の節目にやる儀式は、脳の回路の切り替えにもつながるのである。

月日が経っても、同じ時間が続いているだけでは、当然のことながら人生に句読点がなく、脳も活性化できない。

この数年私は、特別なことを何もせずに新年を迎えるようにしている。根っからのものぐさなのであるが、日ごろと変化のない正月もそれなりに味があって楽しめる。

もともと人間は短期的な変化に過剰反応しがちな反面、中長期的な変化の意味を過小評価しがちのようだ。そういう意味では、行事が重なる年末年始を平常心で過ごしてみるのもいいものだ。今だからこそ、曇りのないレンズで時代を見られるような気になれるから。

 

今も昔も知らないことだらけ

 

デジタル機器の進化で、その応用はめざましい。
小売店で“顔認識システム”が、万引き防止や客層把握に使われ始めているという。
<カメラで撮影した顔の特徴から同一人物を自動的に検知する>というものだ。

それは、本人の気付かぬうちに、顔データが活用されているケースが、ほとんどなのだろうか。

個人情報保護法で個人識別符号と位置づけられ、取得にあたり利用目的を示さなければいけない個人情報なのではあるが、どこまで実施されているのかは不明である。

たとえば、商品を選んでレジに来た客の顔を、店員の背中側にあるカメラがとらえると、レジ裏のパソコンに「男性35歳 ID・・・」などと表示されたりするのだ。

 

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全国約100店を数える某書店では、全店舗での顔認識システム導入を進めているそうだ。データベースに万引きした疑いのある客の顔データを登録し、来店するたびに検知する仕組みなのだという。

「防犯カメラ作動中」との告知が店にはあるが、顔認識機能があることは触れられていない。“顔認識”の市場は拡大しているが、まだルールは不明確な状態のままらしい。

それは、通常のカメラも顔認識カメラも撮影目的は同じなので問題ない、との考え方に基づくからだという。

日常で見慣れている防犯カメラではあるが、その用途も拡大され、知らぬは撮られるお客さんご本人たちだけなのだろうか。

  

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知らぬといえば、正月にのむ「お屠蘇(とそ)」の正体もつい最近知った。
「お屠蘇」についてのアンケートでも、はっきり答えられる人はほとんどいなかったという。

「お屠蘇」とは、日本酒や本みりんに屠蘇散(とそさん)と呼ばれる生薬を一晩漬け込んだものをいい、ルーツは中国にあるとのこと。平安時代に日本へ伝来し、宮中で使われるようになり、一般に広まったのは江戸時代だ。

一年の健康を願う(体にいい成分がたっぷりの)屠蘇は<邪気を屠(ほふ)り、心身を蘇らせる>という意味があり、元旦に飲むことで一年間元気で過ごせると信じられてきた。

昔の庶民には「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」と呼ばれる風習があった
この1年間で体験した<7つのおいしい味、5つのよろこばしい話、3つのいい出会い>。それがあったかどうか、大みそかの夜に家族で披露し合うのである。

さてさて、除夜の鐘が聞こえるまでは、あと少し・・・。
皆様、よいお年をお迎え下さい。<(_ _)>"ハハーッ

 

宇宙エレベーターのスタート

 

炭素繊維「カーボンナノチューブ(CNT)」は、(近年開発が進む)日本発の先端素材である。髪の毛の1万分の1の細さなのに、鋼鉄より丈夫で軽いという特徴がある。

炭素は、温度や光など条件のちがいで、電気の通りやすさが変化する“半導体”の性質を持つ。地球上の様々な物質をつくる基本元素の一つである。人間や動物の体をつくるたんぱく質や脂質にも(炭素が)含まれるという。炭素に水素などが結びつくと、石油などの化石燃料になる。

CNTは、炭素が六角形に結びつき、筒状に丸まった極細の炭素繊維である。
直径は1ナノ~数十ナノ・メートル程度だという。ちなみにナノの単位は10億分の1。
軽くて柔らかいが、両端を引っ張った場合の強度は鋼鉄の20倍、熱の伝わりやすさは銅の10倍だという。

電気や熱を伝える効率が高いCNTは、デジタル機器に使われる集積回路の小型化や、送電線、耐熱ゴムなどの改良に役立つ。

 

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CNTは、瞬時に充放電する蓄電装置「キャパシター」の電極に使うと、性能が大幅に向上するといわれる。それは、ハイブリッド車電気自動車などの重要な部品への応用はもちろんのこと、宇宙でも応用の場が広がる。

今月の9日に日本の無人補給船「こうのとり」6号機が、種子島宇宙センターから打ち上げられた。“こうのとり”には、実験用の超小型衛星が積まれている。

役目を終えた衛星が、宇宙ごみ(デブリ)にならないようにと、落下させる方法を実験する衛星。また、3Dプリンターで作った長距離通信試験用衛星なども搭載されている。
そして、来年早々には未来技術である「宇宙エレベーター」の基礎実験が始まるというのだ。

 

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宇宙エレベーター”は、高度3万6000キロ・メートルの静止軌道上から、上下それぞれに数万キロ・メートルのケーブルを延ばし、人や物資を往復させるという壮大な計画である。大手ゼネコンの大林組が大学などと共同研究して、2050年の完成を目指している。

それには、鉄よりはるかに強くて軽い材質のケーブルや、宇宙で数万キロ・メートルに及ぶケーブルを真っすぐに延ばす方法などを開発する必要がある。

衛星は、縦横と奥行きがそれぞれ10センチの箱形を2基 合体させた形で、片方に太さ0.4ミリ・メートルの釣り糸を巻いたリールが入っているそうだ。
ISSから放出した後、宇宙空間で二つに分離し、糸を最大100メートル延ばす。

<宇宙で糸が予定通りに延び、データが得られればとても貴重だ>とのこと。
私には、空想でさえ及びもつかない遠大な計画に思えるが、もうすぐその第一歩が現実化されるという。今のタイミングで、「カーボンナノチューブ(CNT)」という夢のような先端素材が開発されたことへの縁にも、感慨深いものがある。

 

師走に口ずさむ歌は何だろう

 

赤と緑のクリスマスカラーに華やぐ街。
(ずっと以前の)今ごろは、自らの1年と共に、この1年で流行った曲は何か? と振り返りたくなった。しかし、(頭に浮かび)口ずさめる歌が見当たらなくなって久しい。

かつてのように、街のどこに出かけても聴こえてきて、世代を問わず多くの人が口ずさめるヒット曲がなくなっている。

今やCDの存在感も薄れ、ネット配信や動画配信など、幅広いチャンネルで音楽が楽しめる時代だ。リスナーの趣向も多様化し、世代ごとやジャンルそれぞれに一定のファンがいても、幅広い年代が横つながりで親しめる曲はない。

師走に流れる曲を見知らぬ酔客どうしが合唱していた時代、音楽業界にはヒット曲の仕掛人なる人たちが裏側で活躍していたという。

以前、音楽機関誌のコラムに、レコード各社の「レジェンド」たちが登場されていた。
当事者だけに含蓄が深く、実績に裏打ちされた説得力にあふれている。

 

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人気歌手から音楽プロデューサーになった飯田久彦さんは、『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した。フォーク志向だった2人の女性を、歌って踊れる女性デュオに大変身させ、ヒット曲を連発。その要因は、ザ・ピーナッツの引退で、どうしても再現したいとの思いからだった。

日本初の女性ディレクターだった武田京子さんは、若手トップ女優の吉永小百合さんを担当し、橋幸夫さんとのデュエット曲『いつでも夢を』を実現した。

浅沼正人(Johnny)さんは大きなヒットに恵まれず、歌手の契約終了の交渉に出向いた帰り際、ある歌を聴いて感動した。そして、その奇跡の一曲『トイレの神様』(植村花菜さん)が世に出るきっかけとなった。

ヒットを支えた人たちに共通するものは<「決してあきらめない」、「これまでにないものをつくりたい」、「いいものはいい」>との思いを貫く姿勢である。

 

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口ずさめる歌が見つからなくとも、クリスマスはやってきた。

「切無刀(せつむとう)」という言葉を最近知った。
なんのことやら? と調べたら、僧侶の世界での数字の符丁らしい。
「切」の「刀」がなくて七になる。

ちなみに一は「大無人(だいむじん)」。大から人をなくすとたしかに一である。
同様に、二が「天無人(てんむじん)」で、天から人を取るからだ。

「数え日」という季語はちょうど今の時期に当てはまるとか。
今年もあといく日と、指折り数えるほど暮れが押し詰まる。

クリスマスが過ぎれば、まっしぐらに仕事納めから大みそかへと急ぐ。
去りゆく時を惜しむのなら、「切無刀」式で数えてみるのもよさそうだ。

指折り数えてみたら、今年も残すところ「切無刀」の7日になっている。

 

忘れられない等身大の作詞家

 

袋に福と書かれていても、中身はわからない。
「だれも、福袋を持たされてこの世に出てくるのでは・・・」。
短編小説『福袋』(角田光代さん)にて、主人公の独白である。

あのときの音楽アルバムも福袋に似ていた。題名を見て選んだとしても、聴いてみなければ中身まではわからない。曲によって人間の弱さや醜さも詰まっていて、人の世の深いふちをのぞかせてくれる。

フォーク黎明期に活躍したアーティストのほとんどが、まだ20歳代の若者たちだった。
全共闘の時代が去り平穏が訪れたとき、若者の心をつかんだのが吉田拓郎さんである。

 

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1972年7月にリリースしたオリジナル・アルバム『元気です。』で、吉田拓郎さんは時代の寵児になった。アルバムが売れない時代、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録した。

『元気です。』の参加アーティストとして、石川鷹彦さん、松任谷正隆さん、後藤次利さんたちが名を連ねた。

オリコンアルバムチャートでは14週連続(通算15週)1位を独走。アルバム・セールス時代の先鞭をつけた。そして、その流れに乗った井上陽水さんが、1973年12月にリリースしたアルバム『氷の世界』で日本の音楽史上初の100万枚を売り上げた。

 

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『元気です。』の新鮮さは軽妙なアレンジと、強く印象に残る言葉であった。
このアルバムで初めて、岡本おさみさんを知ることになった。岡本さんの書かれた詞は6曲であった。

フォークを変えたのは拓郎さんといわれるが、岡本さんの詞の貢献も大きい。
作曲者としての吉田拓郎さんとのコンビで知られ、数々の名曲が生まれた。
森進一さん歌唱で、日本レコード大賞を受賞した『襟裳岬』もこのコンビの作品だ。

『落陽』、『旅の宿』、『祭りのあと』、『野の仏』、『ビートルズが教えてくれた』、『ひらひら』など、今も歌い継がれている曲ばかりだ。この秋の拓郎さんのコンサートでも、岡本さんの言葉を堪能させていただいたばかりである。

“浴衣のきみ”は、岡本おさみ夫妻が青森の温泉に新婚旅行で出向いた折の「色っぽいね」らしい。吉田拓郎さんは『旅の宿』の歌詞のネタ元を長年知らずに歌い続けていた、という。

生真面目な雰囲気の岡本さんと「色っぽいね」がどうしても結びつかなかったそうだ。それを知って以来、『旅の宿』を歌うたびに新婚旅行中の岡本さんの顔が浮かんできて、複雑な胸中に陥るらしい。数年前、ラジオで拓郎さんが語っていた。

旅好きな岡本おさみさんは、岬近くの民家で老夫婦から「何もないけれど」とお茶を出してもらった。その体験が「♪何もない春です」の『襟裳岬』になったという。
前から、温かみのある雰囲気を思い浮かべるサビだと思っていたが、こういう逸話があったのだ。

素敵な言葉をたくさん残してくれた岡本おさみさん。
2015年11月30日、73歳で惜しくも死去された。