日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

四字熟語が逆さに替わり納得

 

作家・水上勉さんの小説『飢餓海峡』にあった。
<木蔭で陽当りがわるいから、茸(きのこ)が生えている>。
(本州最北部の貧しい村にある)粗末な家の屋根の描写である。

松茸などがありがたがられる一方で、じめじめした場所に育つ陰の生き物という印象がキノコにはあった。今はもっぱら健康食品のイメージだろうか。

その消費量が経済成長の指標になる、との説もあるらしい。
国民所得が増え、たんぱく質や油脂の多いものに食事が変わる。
そのため生活習慣病が出始め、健康への関心が高まりキノコがよく売れる。

こちらも生活習慣病なのだろうか。今年も政治とカネでしくじる政治家たちが目立った。
国民所得は停滞気味なのに、税金を我が懐へどうやって入れようか、との算段で。

 

1709

 

“一罰百戒”とは、一人の罪や過失を罰することで、他の多くの人々が同じような過失や罪を犯さないよう戒めとすること、との意味だという。

四字熟語の言い間違えでは、妙な意味につながることがある。
大蔵省の事務次官だった谷村裕さんの随筆にあった。

省内の会議で、ある幹部が政策を説明して意義を語ったという。
「これこそ“百罰一戒”というものであります」、と。
たしかに、懲りない“百罰一戒”がまかり通るのは政治の世界かもしれない。

小渕優子経済産業相(当時)に政治資金の疑惑」も、たった2年前のこと。
(ことの成り行きが)尻切れトンボのままなので、もっと昔のような気がしてならない。

2014年10月20日午前、政治資金をめぐる疑惑の件で、安倍首相と会談後、経済産業大臣の辞表を提出。その後、経産省で辞任記者会見を行った。

政治資金の疑惑が浮上していた。観劇。ベビー用品。親類の経営する服飾店への品代。後(のち)の調べでその額は3億円を超えていた、とも。

疑惑の品ぞろえを眺めた印象だけでも、“軽率”や“ずさん”の域を超えて“やりたい放題”に近い。

 

1710

 

元総理を父に持ち、これまで政治とカネでしくじる政治家たちの受けた百罰をさんざん見てきただろうに、戒めひとつ汲み取れなかったのだろうか。

自身の事務所の政治資金報告書に「疑念を持った」として、専門家を入れた第三者に調査を依頼する方針を示した。誰もが得心のいくよう、丁寧に説明もすると。

あのときは言っていたが・・・。

江戸川乱歩さんは執筆に行き詰まると、極度の人間嫌いに陥ったという。
世の人間嫌いには、<気配りを絶やさぬ篤実な人物>が実は少なくない。

ある日、尊敬する先輩作家・宇野浩二さんが自宅に訪ねてきた。
乱歩さんは「旅行中」と居留守を使ったが、嘘をついた罪の意識で家に居たたまれず、温泉に出かけて宿から宇野さんに手紙を書いた。
「あなたにお詫びするために、ほんとうに旅をしています」と。

不正発覚後の議員さんたちも、急に“極度の人間嫌い”になるようであるが、乱歩さんのような誠意をみせることはできないものであろうか。

 

チャンネルをまだ回してた頃

 

“消える魔球”は本当にあるという。
遠近両用の眼鏡をかけてキャッチボールをすると、機能の異なる二つのレンズの境に球がさしかかったとき、消えて見えるらしい。高齢者野球を取材した新聞記者が書いていた。

巨人の星』の伴宙太は魔球を捕るのに特訓を要したが、古希を過ぎた人たちが難なく捕球するというのである。長年培ったカンなのか。それも、脳の指令が運動神経に正しく伝わってなせる技だといえる。

巨人の星』を知らない世代がほとんどかもしれない。
それでもマンガを超えた現実が今起きている。大谷翔平選手である。

日本ハムの4年ぶり7度目の日本シリーズ進出。最後を締めたのは3番・DHでスタメン出場していた大谷翔平投手だ。打者3人に対して15球を投じ、自身が持つ日本プロ野球記録を更新する165キロも3球投げ込んだ。

 

1707

 

作家・村上春樹さんが、小説を書く仕事は実に効率が悪い、とエッセイ『職業としての小説家』に記している。

また、<非効率な中にこそ真実・真理が潜んでいる。効率の良いもの、悪いもののどちらが欠けても、世界はいびつになる>とも述べている。

未来の住民たちは“ニュー・スピーク”という、極めて短い言語をあやつる・・・のだと。
ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』にある。
この67年前の作家の予言は、少なくとも日本では的中したようだ。

ヤバッ、ムカッ、むし…。そんな“ニュー・スピーク”が蔓延り、スマホのLINEやパソコンなどを使ったいじめが後を絶たない。

本当に“ムカッ”と感じているのか、本当に“むし”でいいのか。人生がまだ短すぎて、言葉とその使い方を知らないだけだと思いたいが。

テレビでは秋の連続ドラマが続々始まっているが、ヒットの基準は、視聴率が10%を超えるかどうかにまで下がっている。低迷の理由として、ドラマがつまらなくなったのかどうか。テレビに代わる効率の良いものがスマホなどのメディアということか。

 

1708

 

<チャンネルをまだ回してたころだつた家族は丸く小さく座つた>(目黒哲朗さん)。

昨年亡くなった八代目橘家円蔵(月の家円鏡)さんの絶頂期の売れっ子ぶりは伝説になっている。

「円鏡です。飛ぶ鳥を落としています」。永六輔さんはそう挨拶されたことがあると書いていた。寄席の高座に上がるや、第一声で笑わせたこともある。「ああ、テレビ局からテレビ局へ忙しくてしょうがない。ここで休ませてもらお」。ギャグのようでいて半分は本音であった。

大相撲のテレビ中継は終戦の8年後、1953年に始まった。
「それからですね、土曜日曜が必ず『満員御礼』になったのは」。昭和の名横綱、初代若乃花花田勝治さんが述懐していた。それ以前は「よく入ったときで半分そこそこ」だったと。

戦前のラジオ放送開始のときも観客が急増したという。
観戦の疑似体験が実体験への渇望を呼び覚ましたのだろう。

書物や映画でふれた風物を求めて旅に出る人もいる。
そうかと思えばパソコンやスマホを眺めるばかりの者もいる。昔ながらの媒体に比べ、インターネットは実体験に誘(いざな)う働きが強くないのかもしれない。

 

物怖じと人見知りをしない人

 

若かりし頃、人生の先達者たちからたくさんの刺激をもらった。
この方からの影響も少なくはない。竹村健一さんである。

テレビのトーク番組『竹村健一の世相講談』(1978年4月~1985年3月)では、小渕恵三さん、大平正芳さん、石原慎太郎さん、(大統領になる前の)レーガンさんなどと、多くの著名人が出演していた。

当時、20歳代の小池百合子さん(現都知事)も、その番組で竹村さんのアシスタントを務めた。小池さんもそこでテレビメディアの本質を学び、政治の仕組みを知るきっかけになったようだ。

私自身、竹村さんの著書を読み漁り、サラリーマン時代のノウハウ本として得るものがとても多かった。“目から鱗”の思いで、仕事への応用と効果を楽しめたのだ。

竹村さんはマクルーハン氏のメディア論を日本へ広めた第一人者でもある。
自らテレビやラジオで多くの番組に出演し、それぞれのメディアの特性を活用していた。

 

1705

 

竹村健一さんの講演を一度聴いたことがある。先輩がなかなかとれないチケットを手に入れてくれた。一番前の席に陣取り、びっしりとメモをとりながら聴き入った。

それからしばらくして、2度目の再会が訪れた。
11年前、サントリーホールでのクラシックコンサートだった。
三枝成彰さんの企画で、外国から指揮者を招いた演奏会である。

私の妻(以降M子さん)がなにかの懸賞でゲットしたチケットだったと思う。
M子さんは、チケットをゲットする名人なのだ。

会場入りしたら、良い席でおどろいた。
VIP席なのか、周りは(テレビでよく見る)ジャーナリストや著名人が何人も。
2列後ろには羽田元総理がいた。

私は心配になった。隣に座るM子さんのことだ。
M子さんは有名人を見ると突発的に動いて話しかける。
芸能人にもサッサと近づいて声をかける。

演奏が始まっても、なにが起きるかハラハラ・ドキドキ。
しかし、その日は妙におとなしい。それはそれで、逆に心配になる。

M子さんは休憩時も有名人に近寄る素振りは見せなかった。
再演前に後ろを見たら、羽田さんの後ろに竹村健一ご夫妻がいらっしゃるのに気付いた。

M子さんに伝えると、「いや、ちがうでしょ?」、と。それでも再度振り返り「本当だ」と納得。

M子さんの不気味な静けさもそこまでだった。
その後、予感は的中した

 

1706

 

コンサートが終了。すぐうしろで竹村さんと羽田さんが軽く談笑していた。
そして出口に向かい始めた。我々もその後に続くのだが、M子さんは早足で私の先を歩いて行く。

ゆっくり歩く羽田さんを追い抜いたM子さんは、竹村ご夫妻を追うように、サッサと出口へ向かう。まるで獲物を狙う動物のようにだ。

ホールを出て竹村ご夫妻に追いつくM子さん。
私が追いついたところ、M子さんは竹村健一さんに向かい話しかけていた。
「先生もいらっしゃったのですね」とにこやかに。

竹村さんは知り合いのどなたかと勘違いしたのか、やさしく対応して下さった。
私もどさくさまぎれでご挨拶。感激で胸がいっぱいになった。

それで終わりと思いきや、竹村さんの帰る方向へM子さんは並んで歩いて行く。
少し遅れて竹村さんの奥様と私。奥様は私たちより年代は上だが、小柄で可愛らしい方である。楽しそうにコンサートの感想を私へ話しかけて下さる。

そして別れ際に、M子さんが竹村さんへ一言。
「先生、握手していただけませんか!」。
竹村さんは手持ちのカバンを持ち替え、やさしく握手をしてくれた。

私にとってはあこがれの人だが、M子さんにとってはそうでもないはず。
物怖じと人見知りをしないその人を、うらやましい気持ちで私は眺めていた。

 

“人生の終わり”の後悔とは

 

都会の夜に慣れた目には、山あいの満天の星が明るすぎる。
あまりの密度に驚嘆しつつ、星同士が衝突しないのか心配にもなる。

ところが、星と星の混雑度は「太平洋にスイカが3個程度」なのだという。
宇宙は気が遠くなるほど広い。それだけに謎解きをあきらめない者もいる。

いかにちっぽけだろうと、スイカから宇宙を眺めるのが人類か。
星を眺めると感傷的な気持ちも芽生える。数多い星にもそれぞれの一生がある。

さて、人は人生の終わりにどんなことを思うのだろうか。
1000人以上の患者をみとった緩和医療医・大津秀一さんの著書『死ぬときに後悔すること25』によれば、思い残すことはだいたい決まっているのだという。

 

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<人生はあっという間だった>。
患者の多くがそう言い残していったそうだ。

“後悔”の内容としては、健康を大切にしなかったこと。
がんになって、たばこをやめなかったことを悔いる人も少なくない。

また、自分のやりたいことをやらなかったこと。
望みを抑え込んでいると、やはり後でつらくなるようだ。

人を蹴落として望みをかなえても、結局は満たされない。他人に優しくしなかったことを悔いる人もいる。私など、今から該当することが多くなりそうでこわい。

未婚率が高まる現在は、記憶に残る恋愛をしなかったことや、結婚をしなかったことで後悔する人も現れるかもしれない。

<自分は死ぬはずだったのを助かった。何かが自分を殺さなかった>。
『城の崎にて』の作者、志賀直哉さんは山手線の電車にはねられ九死に一生を得た。

<人はみずからの意思でこの世に生を享(う)けたのではなく、自分が何をするために生まれてきたかを知らない>とも。

 

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<完全な人工知能が開発されれば、人類の終焉を招くかもしれない>と語ったのは、宇宙物理学者・ホーキング博士である。
知力で勝る人間は多くの生き物を圧倒し、絶滅させた。同じことが起きないとも限らない。

人間の作ったロボットが人間を攻撃し始めるのは、SF映画の定番だ。

人間になぜ刃向かうのか、彼ら自身が語る理由が不気味である。
「あなた方がロボットのようではないからです。ロボットのように有能ではないからです」。
チェコの作家チャペックさんの、戯曲『ロボット』にある。

人間を超えたものに人間はどう映るのか。

「あなたが、ネズミが看守の牢屋で目を覚まし、自分がネズミに作られたと知ったら、どういう感情を抱くだろう。畏(おそ)れ? 敬愛? きっと違うだろう」と。
人工知能にくわしい米国のジェイムズ・バラットさんは書いた。

この先、“人生の終わり”の後悔で、<人工知能が開発されなければよかったのに>などとならぬことを、切に願いたいものである。

 

何気ない見出しでわかること

 

知ったつもりで読むと、思い込みとの相違を感じることがある。
『“メリットわからない”4割…電力自由化』。本日の新聞記事にあった。

4月に始まった、「家庭向けの電力小売りの自由化」についてのアンケート結果が、取引監視等委員会により公表された。

電力の契約先を変更しない理由として、「メリットがよくわからない」、「なんとなく不安」との(漠然とした)理由が約4割に上り、内容が十分浸透していないことがわかった。たしかに、私もその4割以内に入るはずだ。

ところが、変更した人に満足度を聞いたところ、約9割もが「望んだレベル以上」としている。いったいどういうことなのか。残念ながら、記事にその先はなかったが、どうしても知りたい情報になっている。

電力つながりで、もうひとつ。一昨日の記事である。
『「はやぶさ」の技術で節電 家電の消費電力を監視、自動制御』というものだ。

約60億キロ・メートルの宇宙長旅の末、2010年に地球へ帰還した探査機「はやぶさ」。
貴重な電力を極限まで有効に使う、宇宙探査機ならではの技術を、家庭や企業の省エネ対策に利用する取り組みが始まっている。

 

1701

 

二つの装置を制御するのが、はやぶさ生まれのプログラムである。
まず、家庭などブレーカーのある配電盤で消費電力を監視し、節電の信号を発信する監視装置。もう一つは、電化製品をつなぐコンセントに内蔵する「スマートブレーカー」と呼ばれる節電装置だ。

コンセントや配電盤に装着できる大きさで、壁に新しい穴を開ける必要はない。
電子レンジなど消費電力の大きい電化製品が使われて家全体の消費電力が急上昇すると、監視装置が働き、信号を無線で送る。

信号を受けたスマートブレーカーは家庭内での優先度に応じて、電化製品の節電を実行し、自動的に冷房の設定温度を上げたり、照明を暗くしたりする。

企業向けでは、オフィスにて多くのノートパソコンは常にコンセントにつながれ、フル充電の状態になることがよくある。

オフィスの制御装置で消費量が一定値を超えたら、バッテリー残量の多いパソコンから順に主電源から切り離され、電力消費量が下がると再び接続する。それも、数千円程度の装置を配電盤や電化製品に外付けできる手軽さなのだという。

 

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『百貨店 爆買い鈍化で低迷 大手3社減収・営業減益』などの記事も見かける。
外国人の爆買い鈍化だけでなく、国内消費の質も大きく変わってきているのだろうか。

高齢者向けに工夫した家電が、より使いやすく進化しているそうだ。
シニアが求める快適さや健康志向に応えようと、操作性や機能にこだわった商品も増えている。体への負担を減らそうと、持ち運んで使う掃除機などは高性能のまま、軽く小さくなった。

シニア家電は、団塊世代が定年退職の時期を迎えた2010年前後から増え、子どもが独立した夫婦だけの世帯を想定され、小型炊飯器など2人分でもおいしく炊けるのが売り。

60代の家電の購買動向調査で、価格が高くても質を求める人の割合は44%で、価格重視37%、必要最低限18%を上回っている。

また、値頃感のあるシニア家電も人気で、開発段階から見直すなどして、機能を簡素化したものも多い。コスト削減につながるうえ、操作がシンプルになり、高齢者にとってはむしろ使いやすくなっているそうだ。

高齢者は家電を長く使っていて、目利きでもある。シニアが支持する製品は操作が快適で、若い世代にとっても使いやすい。売れ筋のヒントも刻々と変わりそうである。

 

神無月は神在月でもあるのか

 

読書の秋なのに、紙の本を読む機会がめっきり減っている。
今もあるのかどうかわからない。買ったばかりの本を開くと、余分な紙を折り畳んだ不体裁なページに出くわすことがあった。製本の際の切り損ねである。

この裁断ミスのページを“福紙”または“恵比須紙”というらしい。
商品の欠陥部分を指すにしては、とても縁起のいい名前である。

それは、陰暦10月の異名“神無月”に関係があるそうな。
神無月には諸国の神々が出雲大社に集まるが、恵比須さまは赴かず、地元に残る。
旅立たずに残る神。立ち残る神ということで、裁ち残る紙のシャレから生まれた名前とか。

出雲大社に全国の神が集まり一年の事を話し合うため、出雲以外には神がいなくなるというのは、中世以降の後付けなのだという説もある。
出雲地方などでは逆に、旧暦10月に“神在月”を用いるようだ。

 

1699

 

1年前の神無月には、おもしろい言葉が新聞紙面に掲載されていた。
“木の葉法”である。なにやら忍術みたいなものを連想してしまった。

「賢い人は葉をどこに隠す? 森のなかに隠す」。
森がなくても手はある。
「1枚の枯れ葉を隠したいと思う者は枯れ木の森をこしらえるだろう」。

英国の作家・チェスタートンの小説『折れた剣』の一節だという。
その“木の葉法”なるものを、政治資金規正法のことに喩えたようだ。

昨年、「日本歯科医師連盟」の元幹部3人が、政治資金規正法違反(虚偽記入、寄付などの)容疑で逮捕された。

法律で決められた上限を超える金額を国会議員の後援会に献金するため、関連団体を利用して“迂回献金”した容疑である。

支援する国会議員に対し、法定の上限を超える寄付をしながら、収支報告書でうその記載をしたというのだ。

上限を超えていないように見せかけるため、一部を別の国会議員の後援会にいったん寄付した形にする、いわゆる“迂回”の手口を使ったらしい。ある意味、これも忍法なのだろうか。

 

1700

 

2004年に自民党・某派へのヤミ献金疑惑が発覚し、政治資金規正法が改正された。
日歯連自身の過去の事件が上限枠を設けるきっかけだった。

自分の手で「政治とカネ」をめぐる不信のタネをまき、生じた法の網をまたかいくぐろうとする。

日歯連は議員1人を誕生させるまでに、4億円もの資金を動かしていたとか。
2013年の参院選前、議員の各地での遊説会場費などに約2億円、会員たちの集会までの旅費に約7800万円などを使ったとされる。

企業・団体献金をなくし、国民の税金を政治資金にあて、クリーンな政治にする。
その前提で生まれたのが政党交付金のはずだった。

そのしくみを改めようという政治の動きはにぶく、寄付の上限枠についても、法改正の当初から“抜け穴だらけ”と指摘されてきた。

“木の葉侍”、“木の葉仙人”と、木の葉には、「威力のない、つまらないもの」という意味合いもあるようだ。政治資金規正法にも“木の葉法”の名がお似合いなのか。

 

男前は女で 女々しくは男なり

 

『喜劇 男は愛嬌』(松竹)という映画のタイトルが印象深い。
46年も前の映画である。森崎東監督デビュー作『喜劇 女は度胸』の続編らしい。映画の本編を観たか記憶は怪しいが、タイトルはしっかり憶えている。

“女々しい”という言葉は男のためにあるという。
となれば、“男っぽい”、“男前”は女性のための言葉なのか。

先の都知事選で小池候補に寄り添った若狭衆院議員が、石原慎太郎さんのお粗末発言を受け、涙を流しながら聴衆へ訴えたシーンが浮かぶ。
男らしさを感じる小池さんと対象的に、男女のキャラが逆転したような気がした。

アベノミクス、三本の矢、1億総活躍社会?
違和感を否めない。明確な言葉が出てこない時は便利だろうが、言葉だけで飾るその女々しさが後味悪い。

「◯◯ホールディングス、今期予想を下方修正、スーパーや百貨店で減損損失」などの現実を見るたび、デフレ脱却など口先だけだったのかと・・・。

 

1697

 

この方の作品は、骨太で男より男っぽい。
山崎豊子さんは長編小説『大地の子』を書き終えたとき、虚脱状態だったという。
いつもなら「完結!万歳!出獄だ!」と、とびはねるのだが、そのときは違った。

そうならなかったのは、「限界を超える仕事に挑んだのではないかと、最後まで不安だった」からだという。「取材の壁が厚いとよくいうが中国の壁は厚いでは足りず、厚くて、高くて、険しいものだった」と。現代中国を描く難しさだったそうだ。

「商人(あきんど)いうもんはどない大きな肚を持ってても、算盤珠弾く時だけは細こう汚のう弾くもんだす」。女主人公・多加が言う。直木賞受賞作『花のれん』の一節にある。

白い巨塔』、『華麗なる一族』など後年の代表作を読んでいるだけに、主人公の口を借りて創作の秘密が語られるように感じてならない。

 

1698

 

戦後日本の“暗部”を丸ごと作品に取り込む大きな「肚」と、物語の面白さを細かく弾いた「算盤」。そのどちらが欠けても山崎文学の魅力を言い表せない。

緻密な取材を重ね、誰の真似ではなく、誰にも真似できない孤高の暖簾を、しっかり守り抜いた作家である。

白い巨塔』も衝撃的だった。

それまで、(一般の人たちが)医師会の内幕は、あれほどまでとは知らなかったはず。
それ以後の医師会のドラマや作品は、『白い巨塔』が下敷きになった。
思えば、あの時代の作家やマスコミは、腐敗を鋭く追及した社会派が多かった。

山崎さんは大阪弁で、「長編に6、7年かかるが、失敗したら6、7年がパーや」と言った。長編に取りかかると短編も書かないし、対談も講演もしない。

前作を超えるものを自分に課し、そのための取材とイマジネーション。
取材した事実と往復する事で、イマジネーションを超える事実に行き着いたという。
亡くなられて3年が過ぎた。最後まで自分を貫き通したあの才能が惜しくてならない。

 

若しもの将来 起こりうること

 

<何となく何物かに押されつつ、ずるずると>。これは驚くべき事態だ、と。
敗戦直後、政治学者・丸山真男さんは、論文を執筆した。

どのようにして、戦前の日本が先の戦争に突入していったのか。
ナチスの指導者は開戦への決断をはっきり意識していたに違いない。

しかし、日本では、我こそが戦争を起こしたという意識を持つ指導者がいない。
日本では、主体的な責任意識が成立するのが難しい、と丸山さんは苦渋の診断をする。

「ずるずると」と形容すべき事態が今も繰り返されている。
豊洲への市場移転問題しかり、膨らむ東京オリンピックパラリンピック経費しかり。
我こそがと名乗り出る者不在で、責任の所在は曖昧なまま、何物かに押されつつ、ずるずると。

 

1695

 

“もし”、“もしも”に漢字をあてれば「若し」、「若しも」である。
将来起こりうることを想定したり、仮定したりするときに用いられる。

「若」は巫女が舞いながら、神のお告げを求める様子を表した象形文字だという。
“かつての若者”目線からのひがみでは、神さまのお告げにもせよ、多彩な可能性の“もし”に恵まれた若い人はやっぱりうらやましい。

“うるさい”が「うるさっ!」。“暑い”が「暑っ!」。
若い人の会話に限らず、最近はよく耳にする。

形容詞の語幹で感動や詠嘆を表す言い方なのらしい。
『花笠音頭』の「めでた」も語幹を独立させて用いた類似の例であるとのこと。
それを思えば、それほど風変わりな用法ではないのかもしれぬが。

 

1696

 

「速っ!」と驚き、「凄(すご)っ!」とうなるほかはない。
プロ野球界の若きスター、日本ハム大谷翔平投手のことである。

4年ぶりにパ・リーグを制した日本ハムを投打両面で強力に引っ張った。
本年も伝家の宝刀「二刀流」を存分に拝ませていただいた。

最大11.5ゲーム差を引っ繰り返した逆転優勝の原動力となり、優勝を決めた試合でも1安打完封で仕留めた立役者である。

22歳。投手と打者を両立させる、常識破りの「二刀流」に挑んできた。
元々はメジャー志望だった。もし、日ハムの強引な誘いがなかったら今頃は?

しかし、メジャーにいたら二刀流は見られなかったかもしれない。
いずれにしても、“将来起こりうる若しも”が楽しみなところである。

かたや、この選手の“将来起こりうる・・”はいかがなものか。
斎藤佑樹投手。大谷投手のチームメイトである。

<存在感消しつつビールかけ参加>とのネット記事が小さく出ていた。
今年はここまで3度の先発を含む、わずか11試合の登板にとどまり、0勝1敗、防御率4.56。今は一軍登録も抹消。昨季は1勝3敗であった。

二刀流・大谷選手がビールかけの中心だったのに対し、ひっそりとビールかけに参加した斎藤投手。“将来起こりうる若しも”はだれにも均等にやってくる。
過去の栄光よりも、将来の栄光に挑んでみてはいかがだろうか。

 

よくある噴飯モノのできごと

 

その昔、小学校で先生から「ひとの嫌がることを進んでしなさい」と児童が教わった。
日本語はむずかしい。ある男の子は、女の子の嫌がることをしながら歩いたという。

数年前の文化庁国語に関する世論調査」では、“噴飯モノ”を「腹立たしくて仕方ないこと」と誤解していた人が、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」を倍以上も上回った。

“食べている飯を笑って噴き出す”との語源はわかっていても、そのままのつもりで使ったら誤解を受けてしまうこともありそうだ。

テレビ番組『笑点』の大喜利を見ながら、「ああ、おかしくてたまらない。じつに噴飯モノだ」と言っても、周りから怪訝な顔をされるのがオチだろう。

ましてや、先輩や上司にお世辞のつもりで、「そのユーモアのセンスは噴飯モノですね」などと言えば、どのような目にあうかわからない。

 

1693

 

夏目漱石さんは真の噴飯モノがお好きなようで、大の落語ファンだったとか。
小説『三四郎』では、登場人物のセリフを使い三代目柳家小さんを絶賛している。

「小さんは天才である・・・彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合わせである」。
その生身の芸に触れられる幸せをうれしそうに語っている。

また、司馬遼太郎さんにも桂米朝さんの芸に触れた一文がある。
「私は人生の晩年になって米朝さんという巨人を得た。この幸福をどう表現していいかわからない」。

古今亭志ん朝さんが脂の乗りきった高座をつとめていたころには、
志ん朝と同時代に生きられるぼくらは、まことに幸せではないか」と作家・小林信彦さんが書いた。

この方たちもまた、真の噴飯モノを追いかけていられたようである。

 

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思えば、憧れる人たちと同時代に生きられるということは、とても運が強いことなのであろう。若人と老人の年齢差があったとしても、同時代に生きられる幸福感はとても大きい。

南米には、年の取り方について「老いる者と、若さを重ねる者がいる」という表現があるそうだ。真の噴飯モノを追いかけていることだけでも、若さを重ねる人生に結びつくかもしれない。

めしべとおしべだけでは受粉できない。虫や風が仲立ちをするからこそ子孫がつながる。
ヒトも同じで、父と母、友、自然・・・に仲立ちをしてもらっている。この世に生まれ出た命には、欠如を満たしてくれる他者がいる。

栄華を誇った巨獣でさえ、自然という他者との絆が切れた時に滅び去った

余談であるが、いつまでも続く政治家たちの不正や不透明な仕事。そして相も変わらず、お得意の弁明が繰り返される。新聞やテレビのニュースに触れるたび、噴飯ならぬ憤懣やるかたない思いにさせられる。

『三四郎』の書生いわく、「今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」と。「自分の人生とは、生きてきたその時々の目撃ではないだろうか」と語っていたのは、秋元康さんである。

 

スマホ発信によるビッグデータ

 

目が覚めたら有名人になっていた。
38年前に刊行された筒井康隆さんの小説『おれに関する噂』である。

ある会社員の情報が世の中へ筒抜けになってしまう。
女子社員をお茶に誘ったことが翌日には、日本中で話題になるといった具合に。

自分の情報が知らないところでやりとりされる。読者の不安をかき立てるには格好のモチーフで、洋の東西を問わず小説の題材として尽きない。

現在、世の情報はスマホ中心になり、人々がどんなモノを買いどんな場所へ行ったか。
膨大な情報(ビッグデータ)を企業が利用しやすくなった。

信販売大手「ジャパネットたかた」は、約8500種類の取扱商品を約600種類に絞り込み、通販サイトをリニューアルし、全商品に45秒の紹介動画をつけるなど商品説明を詳しくした。

販売商品を少なくすることで、顧客サービスの充実を図り、サイトリニューアルは気軽にスマートフォンなどで閲覧できるように、との計らいだ。

 

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インターネット上の膨大な情報を瞬時に集約・分析し、事件や事故、災害などの発生を知らせるシステムも注目されている。基のデータは、ツイッターやインスタグラムなどソーシャルメディアからの情報である。

ビッグデータをふるいにかけ、異変を察知する。
スマホソーシャルメディアの普及で、ユーザーが見聞きしたことをその場で投稿し、別の人が拡散する。一個人が意識せず記者の役割を担う時代なのである。

多数のパトカーや消防車に遭遇したり、(事件・事故の)目撃で、人が発する単語や短文を登録し、リアルタイムで検索する。そこに位置情報が加味できれば、場所の特定の助けになる。この作業をコンピュータに任せることで高速処理が可能にする。

 

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政府でも、地域間の人やモノ、お金の動きを可視化し、インターネット上で無料にて閲覧できる「地域経済分析システム」を公開している。

携帯電話の位置情報を基にした“ビッグデータ”の活用で、訪日外国人の出入国や滞在地域が地図やグラフで参照ができる。

訪日外国人の移動ルートを把握することで、地方自治体が観光政策に役立てることなどが期待されている。

そのシステムでは、特定の都道府県を訪れた外国人が、その前後にどの都道府県を訪れたか、日本地図上で確認し、ランキング形式で閲覧できる。

地図やグラフは、国内の携帯電話会社が所有の、訪日外国人約100万人のスマートフォンローミングデータを基に推計したものだという。データは定期的に更新される。

地方自治体は、観光PRを行う地域の特定や、観光戦略に活用できるほか、旅行業者の観光ルート作りの参考にもなる。

外国人だけではない。我々もすでに(それぞれのスマホなどから)、自分の情報が知らないところでやりとりされていることはまちがいなさそうだ。

保護すべき情報の範囲やプライバシーを守る方法など、議論すべき課題はまだまだ多いはずだが、個人情報だけが勝手に取り込まれているのである。